自由が上演される

渡辺健一郎

1430円(税込)

上演としての自由論と教育の実践

山﨑健太

 本書は「自由についてどう考えるか」という「政治的な問題にアプローチしようとするもの」だと渡辺健一郎ははじめる。なるほど、「哲学史上つねに探究の対象とされて」きた問題を扱った書籍らしく、目次にはフーコー、ドゥルーズ、プラトン、ランシエール等々と哲学者の名が並ぶ。だが、渡辺のアプローチは些かユニークだ。本書の出発点は演劇教育の「現場で遭遇した様々な不/自由についてどのように考えれば良いのか、という問い」にあるというのだから。急いで付け加えるならば、ここで言う「演劇教育」は演劇のスキルを身につけるための教育ではなく、演劇を手段として用いた教育を意味している。本書は自由論であると同時に教育論でもあるのだ。さらに、俳優としても演劇に関わる渡辺はここに「俳優の自由」の問題をも並べてみせる。「他人の言葉を借りることしかできない俳優」にとっての自由とは何か。演劇論、いや、俳優論としての自由論。渡辺はこうして「演劇を通じて教育を問い直し、自由をめぐる新たな思索を開く可能性」を見出そうとする。

 第一章「演劇教育をめぐる自由と暴力」では、一般的にはそれほど馴染みがないであろう「演劇教育」の、主に日本における受容と現状が概観される。いわゆる大きな物語≒目指すべき理念が失われ、教育の暴力性が批判される現代において、教育が子どもに対して「外」から何をするべきかという思考の筋道は袋小路であり、可能なのは子どもの「内」をいかに解放するかと問うことだけである。近年の演劇教育(やそれに類するものとしてのアクティブラーニングなど)はこのような現状認識に対する応答―─「内」を解放する手段として隆盛してきた。

 だが、そこには問題もある。渡辺はフーコーら先達の議論にも触れながら、自由を強いるという矛盾、ある自由を実現するための他の自由の犠牲、そして従属的主体の形成といった問題を併せて指摘していく。なかでも、教師と生徒(あるいは演劇の文脈では見せる人と見る人)の非対称性を回避(しようと)することが引き起こす結果については、そこに一定の有用性を認めつつも、追って批判的に検討されていく。

 第二章「声と中動態」ではまず、ランシエール『無知な教師』で描かれる教師のモデルが持ち出される。ランシエールは、知を伝達するという教育の構造こそが子どもを「無能な者」に仕立て上げているのだとして知の不平等を斥けるが、一方で教師と生徒の非対称性については消去しようとしない。そこでは、教師の役割は何かしらの知に向かおうとする自らの意志を生徒の意志と結びつけ、そうして生徒の意志を知へと向かわせることにあるとされる。

 ランシエールの哲学は、未だ聞かれていない声を拾い上げることで不和を顕在化させ、既存の秩序を揺るがすことに賭けられているのだと指摘する渡辺は、國分功一郎らによる中動態をめぐる議論、そしてケアの思想を経由して、何かに応接する際の倫理とでも呼ぶべき姿勢を探究していく。普遍的な正しさは存在しないという態度でもって、不和を絶えず発見し続けようとすること。

 第三章「俳優と上演」は前章の変奏として読むことができるだろう。ハイデガーのナチスへの加担とファシズムの問題について考えた二人の哲学者フィリップ・ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシー。ここでは錯綜した議論は省略するが、共同体の根拠を自らの内にのみ求めたナチスの内在主義に対抗する契機として、ラクー=ラバルトは「何にでもなりうる」ために「何ものでもありえない」ことを本質とする俳優の存在を見出し、ナンシーは上演の上演性(「やって見せているのだということ」とでも言い換えられるだろうか)を強調することで舞台の外の声を担保しようとした。

 だが、教育もまた聞かれるべき声をあらかじめ設定しているという点において内在主義的であることから逃れられない。渡辺はここに至って、ゆえに「教育は、上演としてのみ可能となるのだ」と結論づける。教師は『教育と自由』という矛盾に満ちた、正しい解釈の存在しない戯曲に、それでも「真剣に取り組むことで、不和の顕現にじっくりと付き合」うことをやって見せる俳優なのだと。

 第四章「上演の倫理」では一転して観客の側から上演をめぐる思索へのアプローチが試みられる。ランシエールのブレヒトへの批判からスタートして観客の性質を検討した先で導かれるのは「より良き上演があるとすればそれは、上演することが観客の感性の世界に別の意味をもたらすもの」という結論だ。であるならば、より良き上演が実現したとき、観客もまた、俳優と同じように「何にでもなりうる」ために「何ものでもありえない」ことを引き受けるきっかけに触れているのかもしれない。

 さて、ここまで本書の議論を概観してきたが、しかしこの文章はある意味では渡辺の論の重要な部分を悉く取りこぼしている。そうならざるを得ないのは、本書において最も重要なのがおそらく、渡辺自身の言葉を借りれば「右往左往しながらの思索の歩み」、その具体的な内実そのものだからだ。

 ナンシーの議論を引きながら、渡辺は「結局自由とは何なのか」と問うこと自体が自由に背を向けることであり、自由を思考することができるとすれば、それは「刻一刻と変化する諸関係のなかで」その都度「ああでもない、こうでもないと、適正なものを求め」続けることによってのみ可能なのだと結論づける。いや、だからそれは結論ではなく一つの態度の表明だろう。

 渡辺は本書で展開される議論を一つの上演なのだと宣言していた。今や明らかなように、それは渡辺が教師の役割を愚直に引き受け、生徒たる読者に対して「やって見せる」ということを意味していたのだった。渡辺の文章は平明で、難解な哲学も嚙み砕いた言葉で説明されている。だが、無数の問いを発しながら思考は行きつ戻りつし、結論は容易には導かれない。そうして「世界の声を聞こうと」し「世界に働きかけること」。それを続けること。それをやって見せること。その実践がここにはある。