温又柔の小説にはどうして三角関係がよく出てくるのだろう。
本書でいうと、表題作である「永遠年軽」では、三人の主要登場人物のなかの二人が交際する期間があり、残りの一人の片思いは秘められる。「誇り」で主人公が交際する教師には妻がいるし、「おりこうさん」の主人公は、夫に別の女性の気配を感じている。これは本書にはじまった傾向ではなく、過去の作品、たとえば『真ん中の子どもたち』のクライマックスはミーミーとリンリンと舜哉の三人の均衡がくずれる瞬間だし、『魯肉飯のさえずり』の第一章は、その章の主人公である桃嘉が夫の浮気の気配を感じつづける不安が軸になっている。三角関係はくり返しあらわれる。
いちばんシンプルな見立ては、その三角関係は、中国・台湾・日本の三国の関係と相似形である、という読み方だ。温又柔はミックスルーツの作家で、台湾人の両親のもとに台湾に生まれ、幼少期に来日し、以後日本に育ったという来歴を公表している。温の小説にはかならず同様のルーツを持つ登場人物が描かれており、作品を横断する特徴になっている。台湾、中国、日本、台湾、中国、日本、作品が変わるごとにリセットされ、また最初から確認されるその三つの国の複雑な歴史と、そこにまたがるルーツを持つ人間のなかで苦しく揺らぐアイデンティティ。ここでひとつ注意を払いたいのは、こういった小説が、ミックスルーツであること自体やそれに伴う葛藤を表現することを目的として書かれているのだろうか、という点だ。日本の小説の多くが、日本が単一民族国家だという「普通」に則って書かれているとしたら、そこに含まれない足場を「普通」として扱うには、一作品ごとに前提を立ち上げ、一作品ごとに踏み固めるしか手段がない。作品において「普通」の前提は省略できるけれど、「普通じゃない」前提は省略できず、しかし、省略しないからといってそこに本題があるとは限らない。〈ミックスルーツ〉を特殊事情として括り出す読み方は、「普通/特別」の対比構造を温存することで、実際これらの小説で試みられていることはその真逆だといえる。同じ説明をしつづけることを厭わない作風にあらわれているのはなによりもねばり強さだと思う。
登場人物たちは決して単純に国家の擬人化として置かれているわけではなく、国、組織、性別、家族、さまざまな属性のなかで伸び縮みし、ときに自己矛盾にも直面するひとりの人間として描き込まれている。しかし同時に、彼らが三角関係を演じるときにあらわれる関係性の揺らぎや微妙なバランスは、三つの国同士の関係と、ときに遠まわしに、ときにはダイナミックに重なっているように感じられる。
温の小説に頻出する〈三角関係〉は、また、婚姻制度への批評としても読めるだろう。男女が一対一でペアになることを根幹とする家族のありかたに水をさす図形としての三角形。「永遠年軽」のなかに、婚姻制度をめぐる問題の縮図のような場面がある。国籍について葛藤した経験から、戸籍上の手続きに過剰な意味を見いだすことに抵抗感を抱き、婚姻届けを「紙きれ」と言い放つ美怜に対し、同性のパートナーを持つ圭一は、「結婚」という制度による優遇を軽視するべきではないと主張する。主人公の由起子は結婚していて、夫の姓に改姓したことにもほとんど不満を抱いていない。三者三様の結婚観が、日本の家族のありかたを相対化する。温の小説には、国家・国籍の話は、一個人にとっては家族の話でもある、ということが、ごく自然に書かれている。つまり、家族の話とは、国家・国籍の話でもある、という視座も得られるだろう。
こういった〈三角関係〉から読み取れるのは、作品の根本に二元論的な発想を崩そうという力学が働いていることだと思う。本書に収められた三作はいずれも「普通/特別」をめぐる話である。「永遠年軽」では、二重国籍を持つ(厳密には日本において台湾人は中国の国籍として扱われるので、いわば三重国籍のようなものでもある)という自らの「特別」さに過剰に振り回される美怜に対し、語り手の由起子は自分が「普通」であることにコンプレックスを抱いている。この話は青春小説でもあり、十代という時間の甘やかさがベールのようにかかっていて、「特別」であることの痛みは、どこか輝かしいことのようにも扱われる。
二作目の「誇り」では「反・普通」への志向によって築かれてしまう歪んだ関係性が描かれ、三作目の「おりこうさん」の主人公は、自分が「普通」であるべきだという強迫観念によって、「普通」ではない属性をあえて前面に出し、積極的に政治的な活動をする妹をおだやかな気持ちでみることができない。
この三作品自体が「普通」をめぐる三角関係のように、行き違い、角度の違う光が当たる。「普通」も「特別」も本書のなかでは称揚もされず、非難もされない。それぞれにそれぞれの事情と功罪がある。しかし、ここにあるのは中立を装った現状肯定でもない。白か黒か、という発想が既存の対立軸を強化することだとしたら、本書で試みられているのはやはり「普通」と「特別」の大胆な攪乱なのだと思う。
『永遠年軽』という書名に触れ、まずは表紙にローマ字で示されているとおりに「エイエンネンケイ」と声に出したあとにわたしがしたことはGoogle翻訳にかけてみることだった。予想通り中国語が検出され、「いつまでも若々しい」という訳出と、中国語を学んだことのないわたしには再現しようのない音が読み上げられた。一対一だと思っていた漢字と音の関係、「永遠年軽」と「エイエンネンケイ」の密着が崩され、知っている漢字のなかから知らない音がする。これが、文学だと思う。言葉のなかの知らない音を響かせること。意味として伝わらなくても、言葉のなかにはつねに知らない音が入っているのだと人に聞かせること。その不安を思い出させること。未知の音のなかに、わたしは、未来はあかるいのだ、という奇妙な確信を吸いこんだ。