平成転向論 SEALDs 鷲田清一 谷川雁

小峰ひずみ

1650円(税込)

「私たちの言葉」を政治に息づかせるために

戸谷洋志

「平成」とは何だったのか。その問いには様々な切り口があるし、またあるべきだろう。小峰ひずみの著書『平成転向論─SEALDs 鷲田清一 谷川雁』は、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の総括を通じて、社会運動の視点からこの問いに答えようとするものだ。

 しばしばSEALDsは、2010年代から世界各地で盛り上がりを見せた、21世紀型大衆運動の一つとして理解されている。その特徴は、SNSを活用して多様な人々をデモへと動員し、ネットのつながりによって権力に抵抗するという点にある。オキュパイ・ウォール・ストリート運動や雨傘革命のように、権力に対して大きな影響力を及ぼすことに成功した例もある。

 しかし、小峰によれば、SEALDsをその日本版として安易に位置づけることはできない。たとえばオキュパイ・ウォール・ストリート運動は、その発足から10年が経過した今でも、依然として持続的な運動体として活動を続けている。しかし、SEALDsは2016年に解散し、少なくともその後に何も残さなかったからだ。

 なぜ、SEALDsは持続的な運動体になることができなかったのか。なぜ、当時、多くの知識人からの熱烈な支持を受けながら、彼/女らは社会運動の表舞台から退場せざるをえなかったのか。その理由を、日本の社会運動史の歴史的な帰結として解釈することが、小峰の視座である。

 そもそもSEALDsの新しさはどこにあったのか。一般的にそれは、暴力的ではなく平和的なデモ活動に終始したこと、あくまでも合法的な手法を徹底したこと、そしてデモに音楽をはじめとする新しい表現を取り入れたことである、と語られる。しかし、小峰が注目するのは、むしろ彼/女らが使う「言葉」である。そこでは、政治の問題があくまでも個人の日常に根差したものとして語られ、民主主義は一人ひとりの人生に内在するものとして再定義された。小峰はそれを、政治的な言葉が「個人の言葉」で補われる、という事態として説明する。そうした政治観によって運動が下支えされていたという点にこそ、SEALDsの独自性がある。

 なぜ彼/女らはそうした言葉を選択したのか。なぜそのように語らざるをえなかったのか。小峰はこう解釈する。すなわちそれは、そのように再定義されなければ人々がもはや民主主義を信じることができなくなっているからだ。言い換えるなら、これまで私たちが民主主義を体現すると考えてきたシステムが、具体的には代議制民主主義が、もはや信頼されなくなっているからだ。

 もちろん、それ自体は現代に特有の問題ではない。社会に信頼が寄せられなくなったとき、いつの時代でも人々は運動を起こす。問題は何を目指して運動が起きるのかということだ。これまでの日本において一般的だったのは、現在とは違った社会のシステムを、いわばその「外部」を理想に掲げる、ということだった。しかし、グローバル資本主義の浸透した今日において、私たちにはもはやそうした「外部」がない。では、「外部」に頼ることができない社会運動はどのように可能になるのだろうか。小峰によれば、それは「内部」への、つまり一人ひとりの日常への「もぐり込み」の戦略を取らざるをえなくなる。その帰結として立ち現れたものが、SEALDsに他ならないのだ。

「平成」に起きた、「外部」から「内部」への運動の根本的な「転向」─それが、小峰の突きつける平成転向論である。では、なぜこの転向を体現したSEALDsは、解体せざるをえなかったのか。この新たな社会運動が失速せざるをえなかった理由はどこにあるのか。こうした問いをめぐる、緻密でありながらも痛快な小峰の分析は、ぜひ実際に本書を手に取って確かめてほしい。

 一方で本書の大きなオリジナリティは、このような社会運動史の分析のなかに、鷲田清一の思想、および彼が提唱した「臨床哲学」を定位させようとする点にある。M・メルロ=ポンティの研究者であり、大阪大学総長を務めた経験もある鷲田は、哲学を大学の研究室に閉じ込めるのではなく、社会に開かれたものとして実践しようとし、大阪大学のなかにその拠点としての臨床哲学研究室を設置した。そこでは、伝統的な文献的研究ではなく、小学校や病院など、実際に現場に赴いて人々と対話することを重視する教育・研究活動が行われた。特に、今日では日本全国で開催されるまでに普及した「哲学カフェ」と呼ばれる実践に、日本でもっとも早く取り組んだ拠点として、哲学の研究者のなかではよく知られている。

 小峰は、臨床哲学をめぐる鷲田の思想から、SEALDsとは異なる形で政治を語る可能性を模索する。それは、「外部」の権威を振りかざすことでもなければ、「内部」に閉じこもることでもなく、それぞれの人々が、それぞれの「現場」のなかで互いに語り合うことによって、言葉の意味を書き換え、「私たちの言葉」を形作っていくことへの希望である。そうした可能性を信じ、その実践に身を投じ、試行を繰り返す人々は、鷲田がW・ベンヤミンから引用した概念を借りて、本書において術語的に「エッセイスト」(試行錯誤する人)と名付けられる。

 日本の社会運動が陥った隘路に対して、小峰はエッセイストという新たな可能性を示唆し、そこに別の光を当てる。もっとも、それが何者であるのか、具体的にどのような実践であるのかが、体系的に論じられるわけではない。しかし、それは本書にとって不足を意味するわけでもない。なぜなら彼が意図しているのは、読者に対してエッセイストとは何かを教えることではなく、読者をエッセイストにすることであるからだ。