ほんのこども

町屋良平

1980円(税込)

遠くに見える暴力を、私小説として書くこと

高山羽根子

 私小説というものは小説なので、ひとまずフィクションに分類される。自伝やノンフィクション、ドキュメンタリー等とはちがって、私小説のほとんどは、フィクションとしてかかれ、読まれる。

 この作品には、私小説としてかかれているように見える箇所が多くある。そうしてそのうえで、そこから破って出るような噴出孔も、強く印象的なものとしてあちこちに存在する。

 夢、というのもそのうちのひとつ。小説をかくかき手が、不眠や夢について語るとき、それは事実ではないにもかかわらずかき手の体験として語られる。夢の中のことをかくことも、私小説になり得るのだろうか。

 この作品には、かき手であり、また主人公と便宜上呼ばれるべき人物がふたりいる。ひとりは私、ひとりはあべくんという。どちらも物語の上では「かれ」というふうにも呼ばれている。

 私は兄やお母さん、祖母のもとで育ち、肌に病気を持っていて、やがて小説家を目指して実際小説家になり、町屋良平という筆名で、日本で一番有名とされる小説の賞を受賞した。

 他方、あべくんは母親に暴力を受けて育つ。まだあべくんが子どものころ、父親は母親をころした。父親はあべくんを連れて逃げたけれど、捕まったのち、自死をしてしまう。あべくんは「ほんのこ」という施設で育ち、いろんな小説を読んで自身でも短い小説をかき、反社会的な組織の構成員になって暴力の中で生き続け、自身も恋人をころして自死をする。

 私とあべくんは、小学校の同級生だった。乱暴だったあべくんは、父と母の事件をきっかけに別の場所に転校していく。私とあべくんが再会したのは大人になってからで、偶然会ったあべくんは、小説家になりたてだった私にそそのかされるような形で散文をかき、いくつかの作品をメールで私に送ってきた。

 あべくんが自死をした後、私はあべくんが送ってきた作品のあらゆる部分に強く影響され、あべくんの私小説をかくことになってゆく。

 この私小説の中には、あべくんと私のふたつの「かれ」が、ときに同空間に並列し、ときに入れ子の状態になって存在する。私はしばしばあべくんを内包し、あるいは外から眺め、自分では見ることも叶わない場面を思い描く。

 また、この物語の中では小説が発話して、登場人物と対話を行う。そこでは小説自体が語る一人称が発生するし、小説の目線、視界が生まれる。

 そういった私小説という希求の中で「かれ」は探偵小説的な、逃走と追跡にも似た物語を見せていく。暴力に対峙し続けるあべくんという「かれ」、その足跡をたどる小説家の「かれ」。小説家の「私」こと「かれ」は、あべくんの育った施設や住んでいたアパートを訪ね、ときに元親友だったという芝居までうち、あべくんのアウトラインを辿り、探る。

 私と世界の境目、つまり自と他のアウトラインというものは、具体的なものとして言うと「皮膚」だ。生きているうちに人間は、皮膚によってはっきり世界と分かれていて、しぬと腐り、皮膚が溶けて世界と一緒になる。あるいはころされ、焼かれるなどすると、世界の一部としてしみ込んでいく。

 ここでの世界というものは、私以外のすべてなので、だから本来この作品の主人公「かれ」がふたりいた場合の、移動するもうひとりのほうは、そのつど世界の側に移る│はずだけれど、その世界との境目が、比喩ではなく物理的にぽろぽろと崩れる場面が頻繁に訪れる。それぞれの「かれら」の皮膚は、炎症によって、あるいは刺青によって、喧嘩によって、怪我をして運び込まれた病室で久しぶりに言葉を口にしたときの口角の裂けによって、刺したときの傷の裂けめによって、その時々に損なわれていって、「かれ」と世界とのアウトラインを曖昧にしては戻ることを繰り返す。公園で本を読む場面で彼は、皮膚に落ちる木々の影で、自分と世界の関係を感じる。

 ついでに、このものがたりの中で「かく」という言葉は「書く」ではなく「かく」とされる。かき続ける、かき終える、かれにかかれている、だとかいう言葉は、皮膚炎を持つ小説家のことばの中で、自然と別の意味をはらむ。さらに「かく」は「搔く」だけでなく「欠く」という言葉にも繫がっていく。欠けたものとして欠けたまま、物語はかかれる。

 やがてこの物語はそこから、視界自体は大きく広がらぬまま、足を取られて飲みこまれるような手ざわりで、戦争を描くことと記録、戦争を一人称で、経験していない者が書くことの倫理について、スリリングに接続されていく。複数の一人称あるいは複数の「かれ」によって、加えて小説自身の発話によって、暴力は感じられ、否定されず、切実さを加速させていく。

 あべくんが読んでいた暴力の本は、フィクションの暴力についてのものではなかった。そこに書かれる暴力の記憶を持つ人は年老いて、体験は記録でしか引き継がれない。人が人の体をこわすことについて、あべくんは熱心に読む。

 生き残っている自分たちはひょっとしたら、ころされた側ではなくてころした側の生き残りなのかもしれないと思うことから、さらにデータや物語の中に混ざるそれを、どう本物として語るのか、これからの、生きているものがしんだ後や死ぬ瞬間のことをどう語るのか、という話になっていく。手に届かない戦争の風景を、手元にぐいっと引き寄せてとりこむ。それによってこの作品はすごく近くでものを観るような形のまま、とてつもないダイナミズムのようなものを手に入れ、離陸をしていく。

 スタートした物語は、それ自体が私小説を希求しているのと同様に、小説家である私の立っている「自分の場所」に戻る。そうして元々いた場所であるのにまったく違った解像度で見える果てしのないランドスケープ、つまりこの物語のラストシーンに辿りつく。その最後の場所から見えるすべてが、おそらくこの物語の全部だろう。