本質的なことだけを問うている本を読むのは気持ちがよい。
本書の主題は、(戦争をその極限の姿とする)暴力と近代文学の戦いである。本書は、暴力を媒介にして、近代文学、あるいは小説の存在意義と存在可能性を追究している。戦争・暴力に拮抗できるかが、近代文学一般の存在理由を証明する試金石となっているのだ。
もっとも、本書に収められた六本の評論は、それぞれ独立に書かれており、どれも、今述べたような本書の「通奏低音」に拘らず、他の章から切り離しても読みうる自己完結性をもっている。たとえば第Ⅰ章は、浅沼稲次郎を襲った山口二矢を虚構化した、大江健三郎の「政治少年死す」を、テロリストが生まれる瞬間を描き出そうとした小説として読んでみせる。死刑執行人が押す赤いボタンと核ミサイルを発射させる白いボタンの対比から始まる第Ⅱ章は、ほぼ同時期に書かれたジョージ・オーウェルの『一九八四年』と武田泰淳の『第一のボタン』の類似に着目し、加害者か被害者のどちらかの「顔の消去」を伴う二種類の絶滅の暴力と、そこからの逃走線の可能性について考えている。第Ⅳ章では、「原爆乙女」からは、顔と言葉が奪われていたことが、史実を暴きながら証明される。
本書で暴力が発生してくるメカニズムとして繰り返し注目されている現象が、「被包囲強迫」である。被包囲強迫とは、外部から敵に圧迫されていると同時に、内部の敵にも脅かされているという不安だ。このとき敵は、ほんとうは外部の他者ではなく、自らの内奥にひそむ「剝き出しの生」だというのが、本書が示す診断である。被包囲強迫が極端なかたちで現れているのが、ジョナサン・リテルの『慈しみの女神たち』を読解しつつ提示されているファシストの心性である。ドイツ人がユダヤ人を殺戮したのは、自分たちの社会に内在する病をユダヤ人に投影したからであり、SSが同性愛者を殺害したのは自らも同性愛に誘惑されていたからだ(第Ⅵ章)。被包囲強迫は、ファシズムにだけ見出される病理ではない。大江健三郎と三島由紀夫の想像力がテロルに急迫するとき、両者に共有されているのは被包囲強迫である(第Ⅰ章)。ヘイトスピーチは、自身の内奥へと抑圧した、引き受けがたい「醜怪さ」を他者に投影するもので、やはり被包囲強迫の機制に基づいていると看破される。
被包囲強迫からくる暴力には、終わりがない。この暴力のほんとうのターゲットは、自分自身だからだ。ここには、自己言及の悪循環がある。この暴力は、ベンヤミンの「暴力批判論」の分類に対応させれば、─私の解釈では─神話的暴力に入る。法を措定し、法を維持する神話的暴力は、法に依拠して共同体のアイデンティティを純化し、共同体から他者性を排除しようとする暴力である。ところでベンヤミンは、神話的暴力を乗り越える、もうひとつの暴力として神的暴力なる概念を提起している。では本書『暴力論』の中に、神的暴力はあるか。ある! ベンヤミンが明示的に言及されるわけではないが、本書のいたるところに、神的暴力に匹敵する要素がちりばめられている。私はそのように読んだ。
この点が最もはっきりと現れているのが、戦争小説の可能性について論じた第Ⅴ章である。この章は、近代文学を支えてきた〈内面─風景─言文一致〉の三位一体が「原爆」に敗北した─近代文学は原爆の真実を語りえない─ということを示した第Ⅲ章と結びつけて読む必要がある。第Ⅲ章とは対照的に、第Ⅴ章は、大岡昇平と奥泉光という二つの実例で、小説が戦争という暴力に勝利しうることを証明してみせる。ただし、このとき、小説は、近代文学の三位一体を解体しなくてはならない。
大岡の『レイテ戦記』が、戦争の死者をいまここにありありと甦らせることができたのは、高原によると、語る「私」が、「(死者の)顔」のリアルさに支えられた弱い超越性としてのみ措定されているからだ。弱い超越性は、自由間接話法を通じて現れる。自由間接話法とは、語られた内容が、まさに誰かに語られたオブジェクトレベルにあると指し示す印がないまま、直接に描写に露呈する話法である。語られた内容が、誰かの言葉の報告なのか、それとも語り手自身の判断なのか分からなくなり、語る主体が漂流し始める。顔をもつ死者の証言は、自由間接話法で書きとどめられたのだ。
戦争(戦場)を知らない奥泉の場合は、死者たちの「顔」を創作の起点とすることができないので、戦争小説の書き方はより技巧的なものになる。『浪漫的な行軍の記録』では、語り手である「私」の一人称を空中分解させ、切片と化した「私」によって、死者と生者の関係を猥雑に混線させる技法が用いられている。このやり方を本書は「裏声で編まれた自由間接話法」と表している。
私の考えでは、(死者の)顔に、直接的または間接的に触発され、自由間接話法で語られる戦争小説は、戦争の神話的暴力を無効化する神的暴力としての働きを担いうる。「神的暴力」は、何か具体的な暴力のことを指しているのではない。神的暴力は、神話的暴力の発動において前提にされている超越的審級への依拠を全面的に停止することを意味している、と私は解釈している。高原の議論と関連づければ、超越的審級からの委託や許可によって暴力を行使するとき、暴力の行使者か暴力の犠牲者のどちらかから「顔」が奪われる。暴力の行使者が、超越的審級の顔なき道具になるか、暴力の犠牲者が、顔をもたない不活性な対象に還元されるからだ。(一部の)戦争小説が、本書が示しているように、〈顔の復権〉と〈語る「私」の超越性の弱体化〉を伴うことで成功しているならば、それは、神的暴力以外のなにものでもない。
文学と(神話的)暴力との戦いにおいて、文学が勝ちうる。いや、文学だけが、あの三位一体の成立以前へと遡行した文学だけが、被包囲強迫に由来する暴力に勝つ見込みがある。