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李龍徳さんの小説『石を黙らせて』は、性暴力加害者の男性が主人公の物語です。私の書評を読むだけでも、フラッシュバックが起こったり、精神的緊張が高まる可能性があるかもしれません。くれぐれもご注意いただきつつ、ご関心のある方に読んでいただけたら幸いです。
小田原のどか
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帯文には「罪とはなにか。その罪に許しはあるのか。」「逃げられない罪と罰の無間地獄」とあるが、わたしの読後の所感は、本書は「告白」をめぐる物語であり、なにより「書くこと」についての物語であるというものだった。女性をレイプした過去を持つ男性主人公がいかにその罪を償うか、彼の罪はどのように許されるのかを、本作はとりたてて主眼にはしていないように、わたしには思われた。加害男性への罰と報い、社会的制裁の物語を期待すれば、読者は肩透かしを食うことになるだろう。
主人公は同僚女性との婚約を機に、過去の強姦を告白しようと決意する。己の罪を償いたいと考え、高校時代に集団で拉致・暴行した女性を探し出そうとする。作中では女性を見つけ出すための方法として、事件の一部始終を書き記した文章のブログでの公開と、また、同内容の文章を新聞社や雑誌社へ投稿することが想定されている。
刑法上は罪に問われておらず、すでに時効を迎えた過去の出来事とはいえ、本当にその女性を見つけ出したいと思うのであれば、他にも取るべき方法はあるだろう。ゆえに主人公が求めているのは、尊厳を徹底的に毀損した相手への償いであるようでいて、その実、告白という行為自体であるようにも読める。
主人公は過去の罪を告白し、婚約者に去られ、職場を辞職する。集団強姦をともに犯した親友・幹央に償いの計画を明かすが理解は得られず、家族に罪を告白するも受け入れられることはなかった。並行して、ブログに載せる文章は仕上げられていく。
本作は、この文章を書くことを主人公が決意し、それが書き終わるまでの物語であると言ってもいい。主人公は数ヵ月の時間をかけ、文章に手を入れる。構成、文の運び、どのように何を訴えるか、自分はどのような人間であると主張するかを、練りに練る。このブログのための文章を、読者であるわれわれは最後まで読むことができない。しかし、職場の後輩であった女性・芳賀を通じて、その内容を知ることができる。
主人公の過去の行いを辛辣に追及する芳賀は、公開予定の文章に「書き手の意図」を見いだし、見え透いた自己満足であると徹底的に批判した。そして断言する。何をしても無駄なのだ、自殺することも意味はない、身を持ち崩すより他はないのだ、と。「できるだけ長く、みじめな人生を、悔やみばかりをかかえてただ過ごすしかないんだって」と芳賀は言う。芳賀の辛辣さは度を超えており、正当な振る舞いではない。それでも彼女の物言いと一体化してしまう。そのような「同化」が用意されている。この物語の実に恐ろしいところだ。
主人公と芳賀のやりとりに顕著なように、本作は強姦の罪を告白した主人公と、告白を知る人々との対話篇といえる側面が多分にある。対話篇としての本書のクライマックスのひとつは、集団暴行の首謀者・溝口と主人公の対峙だろう。
いまは県議会議員となっている溝口の発言は自己正当化のさいたるもので、「悪の凡庸さ」の典型と言える。「いまじゃないと味わえない遊びがあるんですけどね。どうです?」と溝口は主人公を集団暴行に誘った。未成年であることを最大限に利用し、集団強姦を気軽な楽しみ程度のものに矮小化するその口ぶりからは、溝口がいかにして同調圧力をつくりだし、幹央や周囲の人間を手なずけてきたかがよくわかる。
とはいえ、溝口の登場は、加害者もまた被害者であるというような、罪の相対化に読者を誘導するものとしては機能しない。幹央との対話でも示唆された加害/被害の複層性は、溝口との会話で再度、提示される。一方でそれは事実だ。主人公もその親友も溝口にそそのかされ、幹央にいたっては精神的に支配されていた。しかし、だから仕方がなかったのだ、と主人公は言わない。ある問題提起に別種の問題提起をかぶせ、そもそもの問題を些末なことのように矮小化して見せることを、主人公は拒絶する。
ここで溝口が持ち出す様々な論法での罪の矮小化に抗するため、主人公の口から読者に伝えられるのが、エルサレム入城の際イエス・キリストが「石が叫びだす」と言ったエピソード(ルカ19:40)である。主人公たちが見知らぬ女性を集団で暴行した夜、女性の叫び声を、木々や、石や、夜空は吸収している。それを黙らせることがどうやってできるのかと、主人公は溝口に言う。
本作最後の対話は、溝口が主人公宅に寄越した若い僧侶・宮下を相手に行われる。この対話を経て、主人公が書き続けた文章はついに手放される。宮下との対話の顚末は、読者によって読み方がわかれるところだ。結局のところ、溝口に懐柔されたのではないかと読むことも可能だろう。
さて、本作で焦点化されるのは、徹頭徹尾、男性主人公の傷つきである。最後まで名前が明かされない主人公を説得する幹央、溝口、宮下の弁もまた、気にせず生きてこられた者が持つ「特権」に下支えされている。他方で、主人公らに踏みにじられた被害者である女性は登場することがない。主人公が想像した死後の世界では、この女性の実相が垣間見られるが、これもまた主人公の自罰願望の顕れであるように書かれている。
本作は、作中で「書くこと」による表現が模索され、「言葉からの解放」が示唆されるも、それらがすべて小説という体裁を取り、「石の叫び」をこだまさせている。じつに端正で、秀逸な構造だ。だからこそその秀逸さに、わたしは抵抗をおぼえてしまう。しかし言うまでもなく、そのような「名なしの加害者の物語」への抵抗感を用意することは、作者の意図するものである。
私事で恐縮だが、本書の書評を依頼されたのとほとんど同時に、2005年から毎年開催されている「死刑囚表現展」の審査依頼を受け、わたしはこれを引き受けた。死刑囚表現展とは、わが国の死刑確定囚のための公募展覧会である。他者が表現する自由を永久にうばった─無論冤罪の可能性がある─死刑確定囚が表現する自由は、どのような理路で担保されるのか。『石を黙らせて』を読みながら、その答えが言葉になっていく手応えを感じていた。