長い一日

滝口悠生

2475円(税込)

「親しみ」の域

山﨑健太

 それぞれに個人事業主であるという「私」と「妻」は一階に大家のおじさんとおばさんが住む木造家屋の二階三階に住んで七年になる。九十一歳になっても自宅の庭で鉄鋼製品を解体する仕事を続けていたおじさんが仕事を引退すると「私」に告げたその朝、おじさんの引退を知らぬままに仕事に出発しようとする妻の「そろそろ引っ越ししたいなあ」という気安い言葉に「私」は動揺させられる。

 当初は早朝からはじまる解体作業の大きな音に閉口していた「私」だが、七年も経てば「日中家で仕事をしている時も全然気にならない」程度には慣れている。そこに住む七年の間、庭からの音を聞く度に「私」はその音に馴染み、そうしておじさんの作業の音はその家での私の生活の一部になっている。

 おじさんが長年親しんだ仕事をやめ、一方で「私たち」が引っ越しへと動きはじめるところからはじまる『長い一日』を読んでまざまざと感じるのはしかし、別離よりはむしろ、ある人やものや出来事が他の人やものや出来事に触れ、馴染み、あたかもその一部のようになる、それぞれに流れる時間に他の(人やものや出来事の)時間が流れ込み、くっついたり離れたり混ざりあったりしながら流れていくその手触りである。

 おじさんの人生の一部である仕事の音は「私」の生活の一部となり、しかし自らの発する音がそのように「私」の生活の一部となっていることをおそらくおじさんは知らない。二十年以上暮らした西武線沿線、ある期間をともに過ごした友人たち、そして妻。触れた時間の、あるものは布団に移った体温のように移ろい、あるものはテーブルについた傷のように残り続ける。

 ところで、『長い一日』は読切エッセイの連載が途中から小説になったものだという。たしかに、読切エッセイの一本目にあたる「二〇一七年八月一六日(一)」では「それはここには書かない」などと書き手の意識が覗いているのだが、私はそれを読んだとき、これが作者である滝口悠生自身の話だとは思っていなかったように思う。エッセイだと知っていれば端から滝口自身の話だと思って読んだだろうし、私小説だと言われればやはり「私」と滝口をニアリーイコールで結ぶ読み方をしたのだろうが、そのような予断なく出会った「私」は単に「私」でしかない。続く「二〇一七年八月一六日(二)」で「滝口さん」という言葉が登場してようやく、語る「私」は滝口自身にぐいと引き寄せられる。いや、作者である滝口が語る「私」に引き寄せられてくる、という方が読者である私の実感には近い。

 ところが、やがて「私」は「夫の私」とも「夫」とも書かれ、そして「妻」もまた「私」として語り出す。なるほどこれは小説である。今度は「妻」が「私」の方へと引き寄せられる。引き寄せられる、というのはまずは語り手が「妻」へと移るということではあるのだが、「私」はここまですでに「夫の私」として馴染んでおり、その「夫の私」が「妻」の方にぐいと引き寄せられるということでもある。だから「夫の私もそれを一緒に語るように聞く」などということが起きる。「夫」と「妻」という言葉はそれぞれに相手があってのものであり、それが使われるときにはもう一方の存在までもが前提されている。「夫は」「妻は」と語られるそれぞれの姿にはそう呼ぶ「妻の私」「夫の私」の視点が寄り添っているようでもあり、実際のところそれはいつしか「妻の私」「夫の私」の語りになっていたりもする。だから、夫婦が「私たち」と呼ばれるとき、それは「私と妻」でも「私と夫」でもあって、つまりは文字通りの「『私』たち」なのだ。

「私」が「夫の私」として馴染んでいる、というのはしかし、『長い一日』という小説を読み進める私にとっての感覚であり、そうであれば引き寄せられているのは読者たる私でもあるだろう。私がこの小説に登場する人々やものごとに強い親しみを覚えるのは、『長い一日』を読む時間が文字通り彼らと付き合う時間として体験されるからだ。

 夫婦は結局、友人の八朔さんが見つけて教えてくれた家を気に入り引っ越しを決めることになる。八朔さんはもともと夫の高校の同級生である窓目くんの大学の後輩で、同じく高校の同級生のけり子とそのパートナーの天麩羅ちゃん、八朔さんの夫の植木さんと娘の円ちゃんに妻を交えた付き合いが今でも続いている。夫と窓目くん、けり子の高校時代に窓目くんの大学時代が、そしてそれぞれのパートナーと子供の時間がその集まりには流れ込んでいる。読者である私は八朔さんの家で行なわれる花見に居合わせ、そこで初めて彼らと出会う。

 花見の席で酔っ払った窓目くんは(なかば追い出されるようにして)ひとり先に帰され、夫はそれを見送りにいく。妻が残る八朔さんの家では夫が知ることのない出来事が起き、駅に向かう路上では妻が知ることのない出来事が起きる。翌日、前夜の記憶をなくした窓目くんは夫も妻も知らない時間を過ごすだろう。

 そうして夫が、妻が、あるいは夫婦がともに知らない出来事もまた、この『長い一日』という小説に書かれることによって、ある「親しみ」の域とでも呼ぶべきもののなかに置かれる。「私」の「親しみ」の域は私自身を中心としながら、親しんだ人やものごとを介して私のいない時間や空間にも広がっていくのだ。『長い一日』を読み「私」と付き合う私もまた、気づけばその「親しみ」のなかにいる。夫は「対人関係の壁が低く、誰とでもすぐ親しくな」るというが、この小説もよく似て読者である私の懐にするりと入り込んでくる。私は見知らぬ友人を思い出すように『長い一日』に書かれた「私」たちのことを反芻している。