ヒカリ文集

松浦理英子

1870円(税込)

ユア・ミラー

沼田真佑

 ここ数年、人と会うことがめっきり減った。一方で、通話に充てる時間のほうはいくらも増えているようだ。まだ話し足りない気はするものの、そうもいかないので電話を切ると、顔を突き合わせたのでもない短いやりとりのあとでも、自分がなにか形を取り戻したように感じることがある。

 気がつけば追憶にふけっていたというようなことも、また増えた。もうだいぶ前になるけれど、新生児の世話をする機会を持ったことがある。その子の母親が体を休める深夜の間の揺り籠みたいな役目だったのだが、このときに受けた感銘は、本小説のなかで、飛方雪実(ひかたゆきみ)がヒカリと過ごした日々を述懐しいうところの、「この世界に自分が存在するのを許されているみたいな気持ちになる」という感じに近いものだった。そしてその思い出は、もう一度彼女の言葉を借りると、現在の私を「安らがせると同時に力づける護符のようなもの」になっている。

 本書の主要人物である賀集(かしゅう)ヒカリという人も、なんといおうか、自分に向けられた好意を正確に理解し、その照り返しで相手を隈なく包み込んでしまう鏡のようなところがある。小説のなかで、六人の登場人物は、共に二十代を送った劇団員時代をヒカリの面影を仲立ちに回想しているが、彼らはいずれも彼女との私的な交わりの記憶に愛着を持っており、十数年を隔ててもなおその余韻から完全には抜け出せないでいるように見える。六人が揃って思い浮かべるのは、ヒカリの「完璧」で「極上」の笑顔で、確かに彼女が自分の許を離れたあとでは、おのおの離脱の苦しみを味わいこそしたものの、その蜜月において得られた幸福感は拭いがたく、甘美な眩しい思い出となって彼らのなかに生きている。

 人は恋をすると、自身の内に思いがけない豊かさを見出すというけれど、ヒカリを恋した六人も、自分が人をこれだけ想うことが出来るといった発見が、おそらくあったのだと思うし、ヒカリのほうでも、そのあまりに行き届いた気配りで彼らをもてなし骨惜しみしなかった。いうなれば相思相愛であったにもかかわらず、いずれの恋も終わりを迎えることになったのは、六人が「興味と愛情」に加え、思い思いの「欲望」をヒカリに向けることが出来ていたのに対し、彼女がたぶん、およそ他者という他者の誰にも、心底からの願望を託すことが出来ない人だったからではないだろうか。

 世界というのは本当に広く、じつに様々なタイプの人がいる。あらゆる人が、それぞれに異なる方針というか、自分だけの幸福の基準のようなものを持って生きており、恐ろしいことにはそれらはすべて等し並みに正しい。この理不尽ともいえる正当性が、人とのコミュニケーションを深めるに当たってのしばしば障壁になる。ただひとつしかない倫理の周りを、それぞれに異なる無数のモラルが旋回しているような状況にあって、それが周囲と微妙に食い違うというのなら、これを秘し隠す、あるいは適宜に調子を合わせるなどしてしのげるのかもしれないが、圧倒的多数の人がこうだと信じているものと画然と異なるモラルを持つ人にとってはどうだろう、その苦労のほどが思いやられる気が私などする。

 ヒカリとの別離の傷心は、彼女との間合いの取り加減によって、程度に差が出るようでもある。例えば小滝朝奈(こたきあさな)の場合、ヒカリとはそもそも期限付きの恋だった。真岡久代(まおかひさよ)は慈しみで中和した節度ある愛情をもってヒカリとつき合うことが出来たようだし、最後にヒカリの恋人になった秋谷優也(あきたにゆうや)は彼女を独占することに初手から諦めをつけていた。こうしたブレーキが効いてのことだろうか、三人の傷は比較的浅くて済んでいたように見える。対するに「自分をちゃんと、深く、愛してる」とヒカリに看做されていた飛方雪実と鷹野裕(たかのひろし)は、彼女との距離を詰め過ぎたものか、手加減なしの優しさを注がれたぶん、その依存の度合いも強くなっていたように思われる。

 人に興味を持つことで得られる楽しみのなかには、苦しみが含まれていることもある。作中人物で身を滅ぼすに至ったのは、劇団の劇作家兼演出家であった破月悠高(はづきゆうこう)一人だが、これは彼がヒカリの笑顔を、「半分泣いているように」見てしまったことに端を発した危難ではないだろうか。もちろんその泣き顔にしてからが、彼に求められたものを察して彼女が送った愛想のようなものだったのかもしれないが、この印象に縛られた彼は、恋に身を投じきることが出来ず、短い期間ながらも十全に彼女に満たされたうえで、不意に別れを告げられるといった正しい手続きを踏むこともかなわず深傷を負ったように見える。引き返せなくなるほどの重度の中毒に陥る手前で解放された五人との違い、ヒカリという人とのつき合い方の、謂わば注意書きのようなものがこの彼の悲劇の内には示されているのではないだろうか。

 本小説には、読者が再会したくなるような人物が多く登場する。飛方雪実という人の個性との出会いが、私にはとりわけ大きかったが、けれども共感ということでは、結局私は男なのだろう、鷹野裕に感情移入してしまう。つごう何度目かの本書の再読中に、ふっとこの『ヒカリ文集』という小説は、三十代も終わりに差しかかり、新規まき直しを迫られている男が昔の恋人を追想し綴った私信としても読めるのではないかと思われて、そう読み、読後にほろ苦い印象が残った。とはいえ小説というものにもやはり、鏡のような特性があるのかもしれず、つまるところこれは私が見たいと望んだものの反映だろうと、そういう気もする。また一読者としての正直な感想として、ヒカリが劇団員たちと次々と関係を持つという状況そのものに、性的な興味を全く覚えなかったかというと、決してそんなことはなかったと書いておかなければ噓になる気もする。