本書の作者、小林エリカの両親は、高名なシャーロッキアンでエスペランティスト、『シャーロック・ホームズ全集』をはじめ、多くの関連本の共訳、共著がある。本書のタイトルも、もちろんホームズに由来したものだ。
作者は以前に、「宝石」という中篇を書いている(『彼女は鏡の中を覗きこむ』収録)。四人姉妹が、父の死後病を得て回復した母を伴い和泉式部ゆかりのラジウム温泉へ行くエピソードから語り起こして、本書にも登場する「三河一の宝石屋の娘」だった父方祖母を振り返りつつ、日本の現代史に作者が以前から強い関心を持つ放射能を絡め、不死の男という都市伝説を添えた一篇だ。
本書は同じ四人姉妹の物語ながら、焦点となっているのは、精神医学者であり、作家、翻訳家でもあった父、小林司である。父と家族の歴史は、四人姉妹の末子リブロの視点から綴られる。敬愛する父の病と死を軸としたごく私的な家族の物語ながら、感傷に引きずられない、毅然とした簡潔な語り口だ。作者の眼差しは、身近なものへ向けられていてもその背後に連なる様々なものを見逃さず、スリムな文章には驚くほどの時間と空間、情報が内包されている。
東京郊外の、戦時中は陸軍の成増飛行場が、戦後は駐留米軍家族が住むグラントハイツがあった土地でのリブロ一家の暮らし。軍医だった祖父の転勤のため、青森で生まれてハルビンへ、また日本に戻って金沢で戦時下の青春時代を過ごし、医師となって妻を伴い渡米、帰国後三児を引き取って離婚、エスペラントを仲立ちに再婚し、四人目の娘を得、夫婦でシャーロック・ホームズの翻訳に取り組んできた父の人生。父の手術とその後一年に及ぶリハビリの経緯。貧しい開業医から一躍人気作家となったコナン・ドイルのエピソード。時間や場所を軽やかに行き来しながら綴られる短い断章のコラージュが、物語を織りなしていく。
まずはリブロの誕生。姉たちはモモ、アジサイ、ユズなのに、作者を思わせる末娘には、エスペラント語で「本」を意味する名前がつけられる。
リブロの頭にまず浮かぶ子供時代の思い出は、「百年ちかく前のイギリス」で書かれた本を開いた父が、左手でページのアルファベットをなぞる姿だ。「小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく」「文字が、言葉たちが、父の身体の中へ入りこむ」ついで父は右手に握った4Bの鉛筆を動かす。「ひらがなと片仮名と漢字がばらばらと落っこちて、深緑色の升目に一文字一文字収まりながら、文字が、言葉になってゆく」そこへ母がやってきて、訳された言葉たちを読み上げる。するとたちまち、白い霧がたちこめ、辻馬車が走り、部屋はヴィクトリア朝のロンドンにはやがわりする。
幼子の眼から見た「シャーロック・ホームズ」翻訳作業の光景である。翻訳という営為の真髄が、ここには描かれている。
そして時が飛び、一人暮らししているリブロのもとに、深夜、父が倒れたと知らせが入る。救急車が来ても、あちこちに積み重なる本が邪魔で担架が入れず、まずは消防隊員が本を運び出す仕儀となったという。病院へ駆けつけると父の容態は重篤だ。
この本だらけの家は、ユニークなノンフィクション『親愛なるキティーたちへ』でも描写されている。父の八〇歳の誕生日に実家を訪れて、父の少年時代の日記を発見した作者が、子供の頃から愛読していた『アンネの日記』の著者と父が同年であることに気づき、書き上げたものだ。本書では、幼少時から文字に魅せられ本好きだったリブロが作家となることは、明示されていない。
リハビリで少しずつ機能を回復した父は、やっと退院して帰宅するも、一年半ほど後に再入院となる。父の死に際は、まるで詩のような研ぎ澄まされた言葉で綴られる。
その翌年、東北地方を大地震と津波が襲い、原子力発電所が爆発する。
職場から徒歩で帰宅したリブロは、床に散乱した父の遺品を搔き集める。「けれど、足りない。絶対的に、足りない。それは、ただの断片でしかない。どれだけ集めようとも、たったひとりが生きた、その人生にすら、満たないのだから」リブロの個人的な喪失に、震災の大きな喪失が重なり、そして、コナン・ドイルが「最後の挨拶」を書いたときの、第一次世界大戦の有様が挿入される。
最終章は、父の死後十年目である。「この頃になってようやくリブロは、父が死んだ、ということを口にできるようになった」と作者は綴る。「けれどいったい、どれだけの言葉を尽くせば、ひとりの人間を、そこに刻まれたものたちを、回復することができるだろう」と。
コロナ禍のため命日に集うことができない母と四姉妹は、代わりにLINEのビデオ通話で語り合う。会話のなかに「かつてあったものたちが去り、忘れられてゆく。新しいものたちが、その隙間を、埋めてゆく」という印象的なフレーズが挿入される。わたしたちの「生」は、まさにこの繰り返しでなりたっているということを、しみじみと思わされる。「いまこの時」の後ろに確かに存在した、消えたものたち、忘れられたものたちへの愛おしさで、胸が痛くなる。
併録の「交霊」には、誰かに自分の「声」を聞いてもらいたいと思っている、名もなき女の霊が登場する。キュリー夫妻の死を見届けた彼女は、やがて霊の声と接続できる装置が発明された未来の日本へ。装置が拾った「声」をひたすら聴いていたある女の娘が、母の死後、自分も高齢になってから、記憶に残っている「声」を、あの女の「声」を書きとめようとする。文字によって交霊するのだ。
「生と死が、生きたものと死んだものが、交わる。/肉と霊が、交わる。私とあなたが、交わる。/私はいま、生きていたが死んでいた。彼女は、死んでいたが生きていた。/やがて、私もまた死に、生きることになるだろう」
小林エリカという作家は、いつもこうして、消えていったもの、見えないものの声にじっと耳を傾けながら、物語を紡いでいる。