カエルのペペというミームがある。元はアーティストのマット・フューリーが生み出した漫画キャラクターで、その名の通りカエルを擬人化させたブサイクで愛らしいキャラクターだった。だが、ペペはインターネットの匿名掲示板4chanにおいてインターネット・ミームとして流行し、やがてそれは独り歩きをはじめた。ペペのミームは怒りやヘイトを伴う投稿にも用いられ、遂には後の大統領、ドナルド・トランプがツイッター上で自身の髪型を模したペペのイラストをリツイートするに至り、カエルのペペはオルタナ右翼の公式マスコットキャラクターと化した。二〇一六年、カエルのペペは名誉毀損防止同盟(通称ADL)によってヘイトシンボルに認定された─。
以上のエピソードが本書とどのような関係にあるのか、訝しむ向きもあるかもしれない。実はこのカエルのペペ、二〇一九年の香港における民主化運動のシンボルになっていたのである。逃亡犯条例の改正に端を発するこの運動は、「普通選挙の実現」を含む五大要求を掲げた大規模なデモへと発展していた。そしてカエルのペペは、「自由」と「希望」の象徴として、香港のデモ隊と路上を彩ったのだ。
この、一見すると不可解なペペの「転生」について、メディアは概ね肯定的に捉えているようだ。ペペのドキュメンタリー映画『フィールズ・グッド・マン』も、この「ヘイト」から「自由」と「民主化への希望」への劇的な(?)変貌を、オルタナ右翼からのペペの奪回として描き、ペペの生みの親マットは「ペペにも再び変われる可能性がある」と笑顔でコメントした。
筆者としては、そうした事実があることに興味を惹かれながらも、香港でのペペの「転生」に対して、どこか腑に落ちない部分があったことも告白しておかなければならない。そんなわけで、ペペの「転生」エピソードは、魚の小骨のように筆者の喉に刺さり続けていたのであるが、本書を読んで、ようやく長年の疑問が氷解したような気持ちになれた。
本書の中で福嶋は、香港の民主化運動の中心にあるのは「本土主義」、すなわち香港の利益を第一として、香港独自の価値(法治と自由)を守り、中国からの干渉に対して防衛線を張ろうとする考え方である、と指摘する。一九七〇年頃から徐々に醸成されてきた、自分の故郷としての本土の意識は、二〇一九年の反送中運動において香港内部のセクショナリズムを解消し、香港を本土主義の下でひとつに統一させた。本土主義の高まりの背景には、中国の政治的な圧力のみならず、悪質な中国人観光客の増加や、香港住民になる権利を得るために大陸から大挙して押し寄せてくる「新中国人」の存在があるという。新住民に抵抗する文化防衛を唱える本土主義には、香港を中国大陸から切り離す分離主義を唱導する、極めてナショナリスティックなイデオロギーとしての側面がある。
香港で起っていることは、見かけよりもずっとややこしいのである。福嶋は、「日本のリベラルは香港の市民的不服従を礼賛するわりに、中国との分離を訴える右翼的な本土主義には目をつぶっている」と舌鋒鋭く指摘する。福嶋によれば、香港の本土主義者たちは、エリート的なリベラル左翼の偽善と道徳主義を唾棄し、エスタブリッシュメントに喧嘩を売り、中国の危険性を訴えるドナルド・トランプを自分たちの代弁者として担ぎ上げた、という。以上の記述を読んで、香港のデモで掲げられるカエルのペペの相貌が、どこか変容して見えてきた。そして、なぜ彼らがカエルのペペをこそ自分たちの運動のシンボルに選んだのか、その核心部分を垣間見た気がした。
福嶋は、右派/左派(あるいはリベラル)といった区分に雑に還元して良しとするのでなく、香港を含めた東アジア情勢の複雑な襞を丁寧に腑分けしていく作業のなかで、個々のイデオロギーを支える核に迫ろうとする。その手付きは間違いなく信頼できるものだ。
二一世紀に入って、地政学的な「空間」という観念がますます大きく浮上してきているように思う。たとえば、EUからイグジットした現在のイギリスにおいて、保守系論者の一角で唱えられている「アングロスフィア」なるイデオロギー。これは、カナダやオーストラリア、ニュージーランドといった、世界に散らばるかつてのイギリスの「移住植民地」や「ドミニオン」と呼ばれた国々との一層緊密な統合を訴える構想である(当然そこには香港も含まれるだろう)。この「帝国2・0」の構想は、すでに失われた大英帝国へのノスタルジーを未来への駆動力としているという点で、時間錯誤的であり倒錯的である。他にも、ロシアではドゥーギンを宗主とする新ユーラシア主義が勃興し、その脇には正教の復活を背景とするロシア宇宙主義の亡霊が漂っている。現代中国が推し進める天下主義や一帯一路構想─新しいシルクロードという物質主義的なユートピア─に象徴される地政学的イデオロギーの隆盛は、イギリスのアングロスフィアやロシアの新ユーラシア主義などとパラレルな現象として捉えることができる。だがそれだけではない。福嶋によれば、こうしたユートピア的なプロジェクトは、一九三〇年代以降の日本、すなわち大東亜共栄圏の記憶をも鏡のように映し出しているのだ。中国の「分身」としての日本。ユーラシアへの眼差しが、日本の過去(そして現在)を照らし出す、そのような惑星的な視座を本書は提示している。
中国の鏡としての香港(天下主義と本土主義)、そして日本の鏡としての中国(大東亜共栄圏と天下主義)。大国は空間を志向し、片やロシア宇宙主義と劉慈欣『三体』は宇宙を夢想する。複数の鏡(の国)と複数のスペース(そこには往々にして集合的記憶という名の亡霊が徘徊している)が混在しながら乱立する、ユーラシアという時間と空間の蝶番が外れた魔境を散策する上で、本書は優れた手引きとなってくれることだろう。