最初にいきなり結論が提示される。最初の段落がまるっとそのまま結論であり、それはその後変化することはない。分かる人にはこれだけで分かるだろうから、ここで完結しているとも言える。しかし本書はそこからはじまる。では、結論からはじまったその後に、何がなされるのか。おそらくふたつある。ひとつは、提示された結論=ヴィジョンが、それと親しい位置にあると同時に微妙に違ってもいると思われる、様々な思想や作品と突き合わされて検討され、その検討の後でも、ヴィジョンにそれ自身として立っていられる固有の強さが保たれるのかが検証される。第一章から第四章までがそれに当たるだろう。この検証は、第四章において(セザンヌ、山下澄人の作品の検討と共に)確信と言える手応えにたどり着く。
もうひとつ、第五章では、その結論の先が検討される。先、と言っても、結論が部分的に見直されたり改良されたりするのではない。とにかくひとつの結論を得た。それで、その後に何をするのか? ということについて書かれる。その結論はいかにして実践されるのか。いかにすれば実践し得るのか。ここでは書くことが向かう行き先が前の章とは変わっている。
「全体論と有限」という連載時のタイトルが如実に示すとおり、本書を貫く主題は「全体」という概念をどのように捉えるのかというところにある。「全体」について考えるためには「世界」や「実在」について考えざるを得ない。故に本書は、全体、世界、実在等を主題とする(哲学の王道に割って入るような)仰々しい構えをもつことになる。とはいえ、本書のモチーフはあくまで冒頭に置かれた「全体性」のあり方にかんするひとつの直観的なイメージの検証であり、それは哲学由来のものではないだろう。本書のモチーフを私なりに強引に要約するならば、「全体主義から逃れてあり得る全体性について考える」ということになろう。
世界の数はひとつなのか、複数なのか、それとも「世界は存在しない」のか。「全体」を考える以上、それを問題にせざるを得ないように思われる。しかし「世界の数を数える」という発想自体に既に全体主義が紛れ込んでいるとしたら「世界を数えない」という態度もあり得るという見解に至る(私の認識ではマルクス・ガブリエルが言うのはまさにこのことだと思うのだが)。
「世界」にかんする思考は、主題を「神」へシフトして引き継がれる。主に、筒井康隆と入不二基義を対象として、可能世界論下における唯一神の(証明の)不可能性と、神のようにある絶対現実の唯一性とを対比的に説いた第三章は、最も高揚して読んだ。ここには注目すべきふたつの転換がある。『モナドの領域』(筒井康隆)について、青山拓央による「目的なき真理性(世界は、そうであるから、そうである)」を擬人化したものとして「神」があるという解釈に同意しながらも、神の擬人化には、それだけではなくベタに「小説」であることによる「作者」の存在の次元があるとする。神といっても小説内では他と同じ登場人物の一人であるが、その神が《(諸世界の)すべてはわしが創ったんだ》と世界への「愛」を口にする時、そこに一瞬、作品の外にある(諸作品を創ってきた)作者=筒井康隆の存在が「神」に投影される。故に(作者が神の隠喩なのではなく)神は作者の隠喩でもある、と。また、「否定(排中律)の無限後退の向こう側として直覚するしかない、決して顕在化しない無様相の全一性」として「現実(実在)」を捉えるという意味で、否定神学的全体主義の徹底とも思われる入不二の絶対現実=神について、肯定的な驚きと共に記述した後に、しかし《そのことが堪え難い》ところにこそ、小説に「人の姿をした神」が登場する必然性がある、とする。ある意味、高度にロジカルな存在論をベタな次元に引き落とすかのようなこのふたつの転換が、「小説(実践)の準備」へ向かう本書の重要な分水嶺となっているように思われる。
第四章では宇宙のホログラフィック原理が紹介された後、『モレルの発明』(ビオイ=カサーレス)について語られる。すべては既に記録されたものの再生だとしても(ベルクソン的な「新しさ」が無であったとしても)、それと実在とで何が違うというのか、と。ただし、「モレル…」はホログラフィック原理の等価物として充分ではないだろう。「モレル…」で再生されるのはモノとその動きであって、時空そのものではない。均質で絶対的な時間と空間が先にあり、それをスクリーンとしてモノと動きが映写される。絶対的な時空を前提(基底)としている点で「モレル…」はニュートン物理学の範疇にある。だが、モノ(図)を存在させる器(地)である時間・空間はそれ自体として絶対的でも透明(中立的)でもない。
モノ(実在・図)についての考え方を変えるためには、その器(時空・地)についての考え方も変える必要がある。図と地は相即不離であるから、全体主義を逃れる全体性について考えるために、それは必須なのだ。始まり→中間→終わりという進行から逃れ、有限の中に全体を含み込ませるには、時空の構造をその根本から揺るがさなければならない。そこで本書は、セザンヌと山下澄人にたどり着く。彼らは、モノを容れるためにその器から創り直そうとする作家だからだ。
ロラン・バルトの『小説の準備』について検討する第五章は、そのまま佐々木敦の「小説の準備」であろう。私は、本書の後に(あるいは並行して?)書かれた小説「半睡」を既に読んでいる。後出しジャンケンのような視点からみると、本書全体の至る所に小説へ発展する種が散見されるのだが、特に第五章は自作に対する言及のようですらある。本書のほぼ最後に、バルトの検討から導かれた「小説とは何(であり、何でないの)か?」にまつわるみっつの問題が置かれる。(一)断片性からの離陸、(二)記憶(力)の問題、(三)噓の問題。これらはほとんどそのまま「半睡」の主題として引き継がれる。