中条省平氏の博学多識を尊敬する点において、ぼくは人後に落ちるものではない。何しろこれまで直接、間接に知的恩恵を受け続けて40年におよぶという事情があるのだ。仏文の修士課程新入生としてガイダンスの日に同席したのが最初の出会いで、只者ではないことはたちまち知れた。文学、映画、マンガ、音楽と関心の対象は広く、知識と理解の深さは並外れていた。こちらの興味の範囲と重なるだけに、凄い人がいるなあと感嘆のほかなかったが、これほど心強い趣味の審判者が同級生にいるのは幸運なことだった。本書でも触れられているとおり「人生の地獄の季節」を経て大学院にやってきた中条氏は、何も知らないまま進学したぼくなどの数歳年上だった。だが先輩風を吹かせることは一切なく、マウンティング的な威張り方のかけらもない、粋で高潔なお人柄なのだ。だじゃれ好き、物まね好きで、田中角栄元首相や、そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いで批評言語を刷新せんとしていた蓮實重彥先生の口まねを自在に演じて腹を抱えさせてくれた。
そんな中条省平氏はぼくにとって一個の謎でもあり続けた。いかにもバランスの取れた趣味人だが、澁澤龍彥や三島由紀夫の名前を出すとき口調は俄然、熱を帯びる。研究題目に選んだのはデカダン作家バルベー・ドールヴィイ。その文学的志向性はかなりおどろおどろしい方向に傾いていた。どうやらご本尊はサド侯爵であるらしい。自分の無理解をさらけ出すことになるが、ぼくにとってサドはたとえ闊達な澁澤訳であってもちょっと通読できない、苦手な作家だった。暴力と悪辣な淫欲、憐れな生贄たちの苦しみに満ちた世界が、なぜ人格者中条氏をかくも魅了するのか。
本書は、中条氏にとってフランス文学とは何かを真率に書き綴った全31章からなる批評的エッセーである。フランス近現代文学への案内として極上のものであり、はずむ筆致の面白さは比類がない。自らがいかにフランス文学との遭遇を重ねたかを回想するエピソードもふんだんに盛り込まれ、一個の教養小説の趣ももつ。そうした集大成的一巻の冒頭がまさしくサド侯爵から始まっている。そこにはぼくが長年うっすらと抱き続けてきた疑問への回答が、明快に述べられていた。
サドの小説は「否定に次ぐ否定」を旨とする。神の虚偽を自然の真実(=悪の快楽)によって否定するが、その自然そのものも最終的には否定される。そこにあるのは「度をすごすときすべては善い」という考えであり、ブランショのサド論の表現によれば「エネルギー的人間の至上権」だ。しかも否定は自分にも向けられるから、「快楽の人は無感動に至り、ここでサド的魂は完成される」。だが終わりは始まりに通じ、そのサイクルは「際限なく反復される」。そのサイクルを支える「強度」の肯定こそがサドの思想なのだ。
整然たる論旨を追いながら、ここに解き明かされているのは旺盛な読み手にして批評的エッセーの書き手である中条氏自身を駆動する円環運動の構造でもあると思い当たった。氏の驚くべき消化力、咀嚼力による評論活動は「度をすごす」ことの「至上権」の行使であり、そのなかで氏は読み手としての自らの限界を問いながら、その限界をたえず押し広げていくのだろう─無感動が快楽に入れ替わるダイナミズムに身を捧げながら。しかも中条氏は「光明の世紀」にふさわしい「明晰な理性」を拠りどころとして世界と人間の「転覆」を企てた点にサドの歴史性を見出す。そこにも氏自らのスタイルとの本質的な類縁がある。中条氏の文章は隅々まで理性に照らされた明澄な文章である。「ですます」体を意識的に選び取ることで、余計な難解さ─小林秀雄について本書でいわれている言葉を借りれば「こけおどしのレトリック」─は厳しく退けられる。啓蒙主義的とも呼びたい文体を護持しながら、過剰な破壊力をもつ対象に立ち向かうことのスリルが中条氏の文章の魅力をなす。つまり「聖侯爵」との資質の違いは疑い得ないとしても、中条氏は一個の「サド」だったのだ。
扱われている作品の価値転覆的な怪物性と、それをのびのびと楽しげに論じる言葉が切り結ぶ中から生まれてくるのは、一種の爽快さの印象だ。ディレッタンティズムの愉悦も横溢するが、そこに人生の意味が賭けられているという緊張が失われることはない。バタイユを扱った章にそれがよく表れている。中条氏は中学三年(!)で出会ったゴダール『ウイークエンド』を介して異形の小説『眼球譚』を知った。ロラン・バルトの名高い論文によれば、それは眼球と卵と睾丸の隠喩関係にもとづく「意味内容を欠いた記号作用」なのだという。「バルトは私の大好きな批評家ですが、この分析は完全に誤っています。(…)バタイユが描きだすのは、意味を欠いたイメージの戯れでは断じてありません。その彼方には人間の奥底から噴きあがってくる動物的エネルギーへの目眩く恐怖と讃嘆があります。そのことへの畏れなしにバタイユを解読する知的遊戯を私は軽蔑するほかありません。」
バルトを斬り捨てる胸のすくような啖呵という以上に、バタイユに震撼させられた自らの経験を「知的遊戯」に譲り渡すまいとする思いの一途さに、心から共感を覚える。パリ留学時に指導を受けたF教授の「自己満足に浸りきったブルジョワ然たる態度」に失望した体験を語る一節にも、文学を裏切ってはならないという思念が痛切に表れている。「人間とは何か」という表題は、中条氏の根幹を支えるきわめて倫理的な選択を示すものだ。文学も映画も人間を問い、生き方を問うことに直結する。さもなければそれはたちまちのうちに生気を欠いたアカデミズムに堕してしまう。中条氏は中学生のころ直観的に得たそんな確信を裏切ることなく読み続け、書き続けてきた。本書がそのことを十全に証しだてている。