少年期からの憧れの作家だが、批評の場ゆえ僭越ながら敬称を略す。思えば一九八一年、中学一年の時に角川文庫の『限りなき夏1』を読んで以来、初夏が来るたび文庫を読み続け、三十八年越しに眷恋の片岡義男への思いを書く機会を得た。新著についても書くが、彼の文学全体についての概評も書く。
作家は七〇年代、多くは波乗りとオートバイの小説を書いていた。むろん、ごく初期には、二十一人を殺し二十一歳で死んだビリー・ザ・キッド伝に材をとった『友よ、また逢おう』のような土臭いピカレスク・ロマンや、青年たちのアモラルでアナーキーな生き方を描いた『スローなブギにしてくれ』も、またそれ以前、テディ片岡名義の時代には複数の実験的なパロディ小説を物してもいる。しかし、少年期からハワイを愛するアメリカ通の作家にとって、さしあたり大きな興味対象は、波と路上と星空、灼けつく夏に彩られた彷徨の世界だった。角川文庫『吹いていく風のバラッド』に登場する無宿旅の青年は、洗い髪を拭いたTシャツでバイクのヘッドランプも拭い、また走る二輪のオイルタンクにテープで留めて熱したレトルトのカレーを三十円の大盛り飯にかけて川岸で頰張る。そんな話の数々に思春期の僕は強く惹かれた。
八〇年前後は文庫本が攻勢を強め始めた時期でもある。身に携えやすい薄い文庫本はデニムの尻ポケットにねじ込み、ふとした合間に引き出して、反ったページをパキパキと開きつつ、蒼空の下でも読むことができた。
僕の十代とほぼ重なる八〇年代は、片岡義男にとって実り多き時代で、文庫本の隆盛に乗じて、彼独特の本づくりの美意識も大胆に発揮された。一行の字数を減らしたり(上下の余白が大きくなる)、活字の色に黒でなく臙脂や紺を使ったり、佐藤秀明を初めとする多くの写真家とコラボレートするなど、編集・企画に大きく携わる総合的〈造本家〉の一面を彼は自在に発揮し読者を魅惑し続けた。
本書『窓の外を見てください』でも当時確立された彼の都会的でスタイリッシュな外面描写手法が、幾多のマイナー・チェンジの年輪を刻みつつ展開されており、特技である〈作中での創意の開陳〉にも安定感がある。
若き作家が、二冊目の短編集を考想し、東京から尾道・呉・広島の三つの町に住む三人の女性を車で訪ね、そこで生起するケミストリーを書こうとする。│という話はいかが、と作者はまるで読者に耳打ちするように伺いを立てる。若い作家の身振りや逡巡、いやもっと、彼の小説に外から闖入する幾つもの要素、地方の小さな食堂で鰯の塩焼きを食べ、男と会い女と会いする経緯も、年上の作家との対談の仕事も、それに付随して書いた依頼短編もすべて並置してみたら。│そうしたいので皆さんお付き合い下さい、本にする際には作中の依頼短編の〈作外バージョン違い〉も付録としてつけますから。と、こうした読者へのギフト・ラッピングまでを含むサプライズの総体が即ち本書である。
本作はいわば、走りながら考え書く若い作家の気まぐれを作者片岡が微笑んで許し、彼に併走して、その行程を筆で辿ったものだ。
こうした都度々々の創意を読者に打ち明けながら書き進んだり、登場人物らが自分たちのいる世界を〈小説内だと仮定して〉軽妙洒脱な掛け合いをしたりする、片岡のいわゆる〈小説の小説〉は、八〇年代を通して確立され、のち『甘く優しい短篇小説』(新潮文庫)や『小説のような人』(早川書房)などの諸著作に結実し今日に至る。本作でも主人公と女性の会話の中の「好みの石鹼を買うために小走りに店へ向かう美人は、小説のなかの点景になる」/「点景ではなくて、主題にして」などの場面に〈小説内登場人物としての自覚〉が窺える。
これら片岡の小説作法は、単なる余技・遊戯ではない。作家の特異で確乎たる小説観に基づく必然的な方法の帰結なのである。
例えば『and I Love Her』(角川文庫)や『彼女から学んだこと』(同)など、一部の八〇年代作品は、かつて僕に一種異様な文体感覚を味わわせた。この二作はいずれも一人の女性の時間の客観叙述を宗とした、作家にとって極めて実験的な小説で、徹底した外面描写と最小限に抑制された会話のストイシズムに貫かれた傑作である。この時期片岡は写真へも大きく傾倒しており、静的な写真から小説への表現のパラフレーズを夢見ている。
彼女らは黙々と描かれる。凛々しく美しい肢体に宿る輪郭を、意識して読者へ見せる。まるでポール・デルヴォーの画中に夢遊する裸女たちの、あの形而上的な均整を帯びて。
かつて片岡は、八五年頃に現代言語セミナー代表の清野徹から、ロブ=グリエら同時代のヌーヴォー・ロマンに影響されたことは、と訊かれ、「ええ、大好きな文学ジャンルです」と即答している(『彼らがまだ幸福だった頃』角川文庫解説)。また二〇〇一年発行の短編セレクション『エンド・マークから始まる』(角川文庫)のあとがきでは、「現実感は必要ない、そしてリアリティとも無縁である」という自作の持つ珍妙な特質を認め、恐らく唯一切実で〈リアル〉なもの(リアリティと異なるラカン的な「現実」。評者援用)を穿つのは自らの「選ぶ言葉とその使い方」が生む「虚構」であり、その試みにこそ作家の「身体性」が宿ると悟達している。
本書にも多数の美女が登場する。みな品が良く分別があり大人だ。フォーマルな丁寧語や「ですます」調で話すかと思えば、時にフランクな口調に転じ微笑も媚態も作る。己が作中の被写体であることを知悉し、あざとく効果を計りつつ行文のランウェイを歩く。
本書中、あの車景のごとく次々にすれ違う多くの女性たちは多分、たった一人の女優がマネキンのように目まぐるしく衣裳を替えながら五役も六役もこなしている。彼女は虚構ゆえ疲労を知らない。片岡義男の小説言語も疲労を知らない。彼の小説は疲弊しない。八〇歳の恐るべき作家の、永遠の小説世界が、不思議な文字の身体性と、静かな文体的狂気とを携え、不敵に、ここに立っている。