ニムロッド

上田岳弘

1650円(税込)

功利主義のオルタナティヴを求めて

江南亜美子

 上田岳弘はテーマを持っている。不老不死を扱った二〇一三年のデビュー作「太陽」から、十万年の時を超えて転生し、記憶を共有する三人の人物を描く『私の恋人』、新興宗教と天才ハッカーの結節点が描かれた『異郷の友人』など、どれをとっても最終的にひとつの光景に行きつく。それは、人類なきあとの世界を、まるで神のごときマクロ的な全知の視点から見るというものだ。その世界が完成されてしまう一日前とでもいうべき、人類の最後のあがきを、様々なバリエーションでとらえて各々の作品はできている。

 先行する作品の題材や細部を新作にも再登場させ、老舗うなぎ店の秘伝のたれのように継ぎ足しつつ更新させるのも上田の特徴的な創作法で、『ニムロッド』は『塔と重力』を、『塔と重力』は『異郷の友人』を、部分的に引き継いでいると考えられる。要するに、同じテーマを一貫して書く作家なのだ。しかしその書きぶりはつねにダイナミックで、読む者を倦ませず着地点まで運んでいく。

『ニムロッド』が終盤に見せるヴィジョンもまた壮大である。だが始まりはあくまでも卑小な人間の日常だ。

 主人公は中本哲史、サーバー保全管理の仕事をしている。彼に、社内の余剰サーバーで仮想通貨の採掘をする役目が回ってきたのは、中本がビットコイン創設者とされる人物と同姓同名がゆえの社長の気まぐれか。実体を持たない仮想通貨の取引履歴を記載する報酬として、新規発行された通貨をもらうことを採掘と呼ぶが、この錬金術のような無から有を生む作業は、仮想通貨自体の価値を担保し、他者に欲しがらせ続けるためのシステムサポートでもある。

 中本には、プロの小説家を目指したものの、新人賞の三回落選でうつを発症、いまは名古屋支店に籍を置く荷室仁(ニムロッド)という同僚がいる。彼は時おり、「駄目な飛行機コレクション」と題して、原子力を動力としたり(操縦士が被曝する)、鳥の形状を模倣しながら揚力が伴わなかったり、垂直浮上と平行移動を両立させようとした、人類の無謀にして失敗の飛行機たちを紹介するメールを送ってくる。それとは別に、奇妙な書きかけの小説もメールしてくるのだった。

 ニムロッドの小説には、塔を建てる男が出てくる。スカイツリーもブルジュ・ハリファも超えた高層のそれは、人類の高さへの憧憬と発達した技術が具現化したものだ。〈鳥さえも寄せつけない高さでもまだその先端にはほど遠い。見る者に沈黙を強いるその佇まい。/僕は、なんとしてもその、何よりも高い塔を手に入れなければならない〉

 そんなニムロッドにただならぬ関心を寄せるのが、中本の恋人の田久保紀子である。彼女は外資系証券会社に勤務し、中本と会うのは決まって高級ホテルの一室、世界規模での企業買収もこなす現代社会の成功者だ。ただ出張時に睡眠薬を手放せないのは、かつて自身の結婚生活を瓦解させたある記憶に囚われているから。妊娠時、出生前診断で子の染色体異常が判明し、いわゆる「命の選択」を一人でしたことがトラウマなのだ。

 田久保紀子は、中本とニムロッドに〈優しい世界〉の住人としての同質性を感じ、好ましさを覚える。この〈優しい世界〉が意味するところは複雑で、直接的にはニムロッドのような経済活動の第一線から撤退した男たちが生きられる社会なのだが、広義では、たとえダウン症の子でも構成員としてきちんと包摂してくれる社会、失敗飛行機の残骸たち、無謀な挑戦者たちに敬意を払う社会、人々の多様性を認める社会のことである。ただ世界はこうした理念を掲げつつ、実際には経済至上主義のもと、効率的かつ実践的なシステムに適合できる人々だけを選別し、他を切り捨てるシビアな面も隠さない。田久保紀子はいまは競争社会の勝者側だが、特攻隊員の乗った桜花のように、図太いたくましさと生還可能性の予め奪われた死の欲動が表裏一体となった飛行機で「東方洋上に去る」ことを夢見もしている。

 こうして本作は、私たちにふたつの価値観を突きつけるのだ。功利主義的振る舞いに疑問を持たず、さらには出生前診断での「選別」も合理的とみなして、現行社会システムに最適化していくのが幸福か。あるいはシステムから離脱し、自我に懊悩しながらも個人の自由を手放さないのが幸福なのか。ただいずれも少し不幸で、少し鈍感である。ニムロッドは作中で、塔の上の男に、生産性を最大限に高めるため人類がひとつに溶け合ってしまった下界の様を覗かせた。溶け合った人類たちは、〈あのファンド〉と呼ばれる経済システムそのものとも同一化し、一種の涅槃を形づくる。しかしニムロッドは、そして田久保もおそらく中本も、そんな最終ヴィジョンには同化できない人間たちである。

 田久保はかつての自身の合理的判断や、それを可能にした技術革新を(そうは書かれないが)恨んでいる。中本は原因不明にも左目から水のような涙を流し続けることで、この身体性を現前化させる。そしてニムロッドは、小説を書くという行為こそが、どろどろと不分明になった者たちへの楔となるのではないかと信じているのだ。それぞれの場所で抵抗する三人。この泥くさい戦いの様こそが、人間という存在へのオマージュとなる。

 上田岳弘が本作で、あるいはつねに描かんとするのは、資本主義に基づき設計された冴え冴えとした現代社会のどんつきで、システムにとっては本来無用の存在ながらひとりの名も感情も備えた個人が、健気に世界に立ち向かう姿だと言える。それは哀愁(今風の言い方ではエモさ)をおびる。〈この涙が流れるたびに、僕はもう連絡が取れなくなった田久保紀子とニムロッドのことを思い出す。僕の頭の中で彼らとこの涙が結びついているらしい〉。卑小さと気宇壮大さ。温かみと酷薄さ。このふり幅を収める上田の小説世界には、間違いなく中毒性がある。