この道

古井由吉

2090円(税込)

そのかりそめの心

松浦寿輝

 近作の短篇八作を収める。その一つ一つを独立した作品として読もうと、八篇が全体としてゆるい絆で繫がった連作をなしていると読もうと、どちらでも構わない。また、一篇ごと、虚構の細部をちりばめた小説とも読めるし、著者自身とぴたりと重なる「私」の視点から書き下ろされた感懐吐露のエッセイと読んでもよい。どのようにでも読めるこの散文の融通無碍ぶりは、独立した作品の観念にも、小説とエッセイを分かつジャンルの境界の観念にも信を置くまい、という著者の強固な意志によってもたらされたものだ。

 ただひたすら、文章が│小説だのエッセイだのに分化する以前の、野生の、始源の、荒々しくも繊細な文章が、書き継がれてゆく。言葉の水が流れてゆく。流れるかに見えてふと途絶え、かと思うとまた思いがけない場所から湧出し、新たな川筋を作り出す。この光景は古井由吉の読者にはすでにきわめて親しいものである。すなわち、ある時点以降古井氏が選びとった散文のスタイルが本書でも継続しており、本書を読むことでわたしたちは、そのスタイルの生成変化が現時点で至り着いた最新局面を体感することになる。

 この生成変化が著者の身体の現在と絶えず同期していることは言うまでもなく、従って、傘寿を越えられた古井氏の場合、当然と言えば当然ながら、その現在とは、端的に老いの深化として文体に露呈することになる。小説かエッセイかはともかく、本書を、ある年の早春(初篇の「たなごころ」には「大寒が明けて梅の香が夜に漂う頃」とある)から始まって、季節を追って月日が流れ、翌年の盛夏で終わる、ほぼ一年半ほどにわたる、一老人の暮らしのクロニクルとして読むことは可能である。

 視力、聴覚、嗅覚の衰え、足腰の弱りがしきりと嘆かれるが、文章じたいにはいささかの衰弱も感知されない。選び抜かれた言葉の稠密な持続が、ロジックというよりアナロジックの思考の軌跡をうねうねと描いてゆく。それは一見きわめて奇態なようで、実は身体の自然に密着した、艶やかな詩的思考である。身体の自然、災禍の続く世界の風情の自然にもっとも即してあろうとする意志が、予期せぬ破れ目や迂路を次々に作り出し、結果として文章にかえって佶屈したねじくれの外観を賦与するに至ってしまう、とでも言うべきか。

 過去の出来事の想起がおびただしく挿入される。そこには現実には起こらなかったことも紛れこんでいるかもしれないが、起こらなかったことを思い出したり、起こったことも思い出すごとにその内容に変形や歪曲が施されていったりというのは、それこそ老いの自然にほかなるまい。そもそも、一定不変の過去の「現実」などはたして実在するのかという哲学上の難問じたい、完全にけりがついているわけではない。従って、古井作品の愛読者にはきわめて親しい幾つもの挿話は、本書にも飽きずに再登場する。敵軍の空爆下に逃げ惑った少年時、椎間板ヘルニアの治療で仰向けの姿勢を強いられた日々……。同じことが何度も何度も想起され、そのつど想起主体の現在と共鳴して新たな意味を充塡され直され、詩的豊饒へと向けて熟れてゆく。熟すというより、熟れ鮨というような意味で熟れてゆく、と言ってみたい。単調さの印象などかけらもない、ひたすら不穏で獰猛な反復だ。「なれ過た鮓をあるじの遺恨哉」という蕪村の句がふと心をよぎる。

 両親や兄姉について克明に語られた過去の作品もたしかあったはずだが、本書ではその影が薄く、またこれは従来から同じだが、まだ存命の妻や子や孫などにはほとんど触れられない。結果として、天地に係累のいっさいないよるべない幼子のような存在へと、老年の「私」は戻ってゆくようだ。戦禍で親を見失った哀れなみなしごや、不意に家を出て行方知らずになってしまう老耄の人の運命へ、思いはしきりと向かう。「……自身の本来を思い出せぬままにまた孤児の身となった老年に、もしも埋められた記憶がひらくとしたら、背後からではなく前方の天に、赤い光芒となっておごそかに立つのではないかと思われる」(「野の末」)。太陽の異変で起きた磁気嵐で、江戸期の京都にオーロラが立ったという記録があるというが、そんな異様な天変のように、記憶の数々がはるか前方の空にいきなり現出するのが、老いの窮まりの秘蹟なのだろうか。

 そのとき、生の時間とは、誕生から死へ向かって一方向に流れてゆく持続ではなく、何もかもが同時に現前する異形の「静まり」となる。「行きかふ年も又旅人也」と芭蕉は言ったが、はたしてそうか。歳月の去来というが、「去来というものではなさそうだ。去るも来るもなくなり、生まれてこの方がここにひとつに静止する、そんな果ての境はあるように思われる」(「花の咲く頃には」)。

 行方不明者。迷子。故地から追われ根こそぎになってしまった新住民。「居つきの人に聞いたところでは……」と語り出される箇所があるが(「野の末」)、同じ場所に何十年住もうと決して「居つき」になれないのだ。自身のものと得心できる場所を決して所有できぬまま終わるほかないのが、この現世での仮初の生の実態であろう。「……戦中から敗戦後にかけて流転を見た家の子は、中年になってから定めた居を一途に守ってきても、避難者や居候の心をどこかに留めて、老いに入るにつれてそのかりそめの心が時に、変りもせぬ日常の中へ訝りとなって上ってくるものかと思った」(「行方知れず」)。

 本書末尾に不意に現われるのは笑いである。「気がついてみれば、寝床の中で笑っていた」(「行方知れず」)。この笑いは恐ろしく、すさまじい。それは同作中の行文を少しばかり遡行して、「言葉はつき詰めるとすべて諧謔、徒労の諧謔なのか。人は最期まで言葉という危うい綱を渡り、そして渡り果てぬ者なのか」という物書きとしての覚悟を照射し返すことになる。未だ時ならず、時ならず、と呟きつつ、古井由吉はまだまだこの途方もない綱渡りを続けるだろう。