最初の一編「諧和会議」では、人語を喋れるようになった動物たちの世界が描かれる。人類は、どうやらしばらく前に絶滅したらしい。この日の議題は「猫君の暴虐に関しての対策案について」。議長の蛙に指名された馬が最初に発言するのだが、この演説がひどい。くどくどしくて何を言っているのかわからない。誰かの演説に似ているなと思いながら読む。漢字を間違えて読んだりする人だ。とすれば、これは寓話なのかもしれない。
人語を駆使して平和に暮らそうとする動物たちの中で、猫だけが発語しない。猫は言葉がわかっていないのか、それともわかっているのにあえて発せず、得手勝手をしているのか。それをたしかめるために猿、柴犬、ドーベルマンが猫の元に派遣されるが、ことごとく失敗する。途方にくれる動物たちの頭上、高い木の枝の上に、一匹の猫がいる。そして猫の口からは│。これは寓話である前に、言葉の話であるのかもしれない。
収録されている五編のすべてに、猫が登場する。著者自身が猫を飼い、飼い猫との日々を綴ったエッセイを何冊も上梓している。猫を愛する人に違いないが、猫への愛、というよりは猫への関心によって綴られた本というのが正しく思える。関心の中にはもちろん愛が含まれているとしても。著者は猫のことがとても不思議なのだと思う。不思議に思って、じっと眺めて、そうして生まれた五つの物語なのではないか。
私も猫を飼っていて、猫を愛する者であるから、ヒグチユウコが描く猫の絵はもちろん、本書にちりばめられた、猫の様子をあらわす、この著者ならではの表現に過剰反応せざるを得ない。子猫たちを子猫たちと書かず、ただ「フワフワ」と書くとか、そのフワフワが「人の腹を後ろ足でゲムゲムするなどしていた」とか。町田康の文章を読むと、おかしな話だけれど私はいつもファッション誌のことを考えてしまう。ファッション誌では流行のスタイルが提案され、それをいかにこなれた感じに着こなすか、その「外し」方がレクチャーされている。けれどもレクチャーされた時点でそれは直球になってしまうから、その通りに服を着てもちっとも格好良くないのだ(と私は思う)。町田康の言葉の選び方は、いつでも「外れ」ているのだが、どうして格好いいのだろう、それはその外し方が、圧倒的なボキャブラリーに支えられていて、それなのに即興で、そのうえ必然としか思えないからだろうか。そのようにして言葉が使われる文体で、猫のことが書かれているのだから、私にとっては、それこそ「人の腹を後ろ足でゲムゲム」したいような(つまり興奮して、その興奮を世界中に訴えたいような)心地の読書体験となってしまう。
とはいえ本書は、猫にさして関心がない人たちが読んでもいいはずだ。そういう人たちはどのように読むのだろう。ゲムゲムに反応はしないかもしれないが、考えるだろう。猫というよりは生きもののことを。そしてその生きものの中には、人間も含まれている。というか彼らは、人間のことを考えるだろう。私にしても、猫のことを考えているつもりで気がつくと人間のことを考えている。
あるひとつの意識が体を変えたり、立場を変えたりする物語が、本書には三つ含まれている。「猫とねずみのともぐらし」は、猫がねずみに、ねずみが猫になってしまう。「ココア」は、泥酔して意識を失った男(人間)が目を覚ますと、猫と人間の立場が逆転した世界になっている。「とりあえずこのままいこう」は、死んだ犬が天国のようなところへ行ったあと、子猫となって地上に戻され、元の飼い主に巡り会う。
それで、私はまず、うちの猫たちのことを考える。うちには十九歳の猫と十七歳の猫がいる。どうしてここにいるのだろう、とときどき思う。ベッドの上やダイニングの椅子の上に、ということではなくて、どうしてこの猫は私のそばにいるのだろう、という不思議さだ。もちろん猫が家に来たときの経緯ははっきりしている。十九歳のほうはまだ目が開いたばかりの子猫の頃、最初に住んだアパートの前で鳴いていたのを拾ったのだし、もう一匹はその少しあとに、友だちの子供が拾った子猫を譲り受けたのだ。どちらも偶然で、その偶然が、私と私の猫たちに起きたことが不思議になる。保護猫を引き取ったり、あるいは通りがかりのペットショップで目に留まった一匹を買い求めたという経緯であったとしても、きっと不思議になると思う。その一匹と自分が出会った不思議。そして次には自分のことを考える。自分はどうしてここにいるのだろうと。猫がここにいる不思議さと同じ道筋で考えて、やっぱり不思議になるのである。
表題作「猫のエルは」は詩で、こんなふうにはじまる。「私の家には猫はいない/猫はいないがエルがいる/エルは猫である/猫ではあるがそれ以前にエルである」私はこの詩を何度でも読んでしまう。あるいは「とりあえずこのままいこう」の中に、子猫に生まれ変わった犬の、こんな感慨がある。「もしかしたら俺は霊魂のままなのではないか。(中略)でもいいじゃないか。ドンドンパンパンドンパンパンで行こうじゃないか。霊魂だって猫だって。俺はかつて家の人が好きだった。大分忘れたけど好きだった。そしてこの後、それも忘れてしまうかも知れない。でもいいじゃないか。いまはまだ覚えているし、思い出すことができる。いまは一緒に居ることができている。それでいいではないか。だから俺は、とりあえずこのままいこう。」
最終的に私はこの考えに同意して、それからうちの猫を見に行く。どうしてもそうしたくなる。猫を飼っていない人はどうするだろう。好きな人の顔を見たいと思うかもしれない。一緒に暮らしている人がいるなら、その人を見に行くかもしれない。鏡で自分の顔を見る人もいるかもしれない。