本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。
今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。
「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。
主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。
じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。
事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。
小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。
アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。
それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。