家族でもなく、友人でもなく、恋人でもない、でも絶対的な信頼関係で結ばれている。そんな関係に憧れを感じ深く感銘を受けるのは、それが非常に得難く、短期間で築けるものではないと分かっているからかもしれない。浅生鴨『伴走者』は、人と人との奇跡的な繫がりを極上のスポーツ小説という形で届けてくれている。
「あ、そうかも」という言葉を連想させるペンネームを持つ著者は、NHK職員時代に広報局のツイッターで絶大な人気を誇った元「中の人」。現在は退社してテレビ番組や広告に携わる一方、作家としても活動をしている。NHK在籍時からパラリンピックの番組制作に携わっていた彼が新作小説の舞台に選んだのが、ブラインドスポーツの世界である。前半は「夏・マラソン編」、後半は「冬・スキー編」から成る二部構成だ。
「夏・マラソン編」。システムエンジニアの淡島祐一は、過去に実業団にも所属していたマラソンランナーだ。データ分析に基づいた走りは正確だが、大きな実績を残せない彼は、三十代半ばの今も個人で様々なレースに参加している。そんな淡島に、盲人ランナー、内田健二の伴走者にならないかと声がかかる。内田は元サッカー選手。バイク事故で視力を失い、荒れた時期もあったが今再び、マラソンで世界を目指している。一般の市民ランナーの伴走ではついていけないほどレベルが高いため、淡島に声がかかったというわけだ。しかしこの内田、ふてぶてしい上にえげつない。勝つためなら、ライバル選手を動揺させる言動もいとわないタイプの男だ。
本作の表紙にもあるのが、ランナーと伴走者を繫ぐロープだ。かなり至近距離で走るのだと分かる。伴走者は路面の状態や道の起伏について声で知らせつつ、前を走るランナーを追い抜くタイミングなども考慮して、ペースをコントロールする。視覚障害者が安心してレースに打ち込むためには、こうした信頼できるガイドの存在が必要不可欠だ。
彼らが目指すのはパラリンピックの出場権獲得。連盟が出した条件が、国際大会での優勝だったため、二人は南の小さな島国でのマラソン大会にエントリーする。この大会での息詰まる攻防の様子と、彼ら二人の出会いから現在に至るまでの過去が、交互に語られていく。横柄な内田に対する反発、盲人ロードレースの世界に対する驚きや気づき、衝突、葛藤、そして……。
「冬・スキー編」の主人公は、東北の中堅乳業メーカーに勤務する三十代半ばの立川涼介。会社のアルペンスキー部が広報活動の一環としてパラスキー大会に選手を出場させて入賞を目指すこととなり、涼介に視覚障害クラスの伴走者のオファーがくる。実は彼は学生時代トップレーサーであったが、頂点にいるうちに引退することを潔しとし、大学三年であっさりと身を引いたのだ。彼もまた、勝たなければ意味がないと考えるタイプの人間だ。
涼介がまず驚いたのは、部が選手として有望視しているのが、まだ高校生の少女、鈴木晴であったことだ。フォームもまだまだ自己流だが驚きのスピードを出して滑る彼女を見て、涼介の心にかつて勝者だった頃の快感が甦る。彼女がいれば、もう一度スキーの世界で勝てるかもしれないという思いから、彼は伴走を引き受ける。愛想のない涼介にも屈託なく明るく接する晴だが、問題なのは、大の練習嫌いである点。
視覚障害者のスキーレースでは、伴走者はスピーカーをつけて選手の前を滑り、ターンのタイミングなどを声で伝えていく。相当な時速で滑走するなかで、瞬時に適切な指示を出すとは、ド素人の自分からすれば想像できないテクニックだ。涼介も最初は失敗続きである。まず彼が苦労するのは、晴との信頼関係の構築だ。実力主義者の彼は人の感情の機微を読み取るのが下手な模様。彼なりに気を遣ったのか、晴の荷物を持とうとして彼女に「私は目が悪いだけ。手も足も悪くないんです。荷物は自分で持てます」「できないことだけ助けてください」と言われることも。ただ、それより晴を傷つけたのは、涼介や周囲が繰り返す「お前のためにやっている」といった言葉だ。大会が近づいた頃、彼らの間には決定的な亀裂が入ってしまう。
勝つためならなんだってする内田、勝利より記録を重視する淡島、本当は自分が勝利に酔いたいのに「相手のためにやってやる」という態度を崩さない涼介、それに反発し、勝負にはこだわりを見せない晴。最初から思いが食い違っている彼らが、どうやって関係を前進させていくか。
互いがぶつかり合い理解を深めていく人間ドラマ、選手と伴走者の双方がトレーニングで技量を磨いていく過程、そして二人で挑む競技そのものの面白さでぐいぐいと読ませる。当たり前のことだが、選手たちを障害があっても挫けず挑戦する聖人君子として、伴走者たちを献身的に尽くす人格者として描いていないところが魅力だ。個性ある、人間くさい彼らがぶつかり合うからこそ、そこに生まれるなまなましい感情の矢が心に刺さる。
これは、余所で生きてきた人間が障害者の世界を理解し、パートナーとして寄り添い支えていく話ではない。選手と伴走する者が対等に向き合い、互いが相手の伴走者となっていく話だ。そうなってようやく、これほどまでの信頼関係は生まれる。
どちらも二〇二〇年の東京オリンピックが終わった後が舞台となっている。作中にはこんな一文がある。〈二〇二〇年に東京でパラリンピックが開催された時には多少の注目を集めたものの、大会が終わってしまえば再び無関心が障害者スポーツを覆った。〉本作は決してタイムリーな話題に乗っかるためだけに書かれたものでなく、その先へと思いがこめられていることが伝わってくる。