古臭い純文学の類を無理して読んではみたものの殆んどが退屈でピンと来ない。
合同コンパなどに現れる読書家気取りのインテリ小娘をオチョクル程度の教養は身に付いたが。
西村文学と出会うまで、共感、感銘といった物を感じた事が無かった。
「身に沁みる、凡てが。」
これは本作の帯文からの引用だが噓は無くまたしても最高傑作に出会ってしまった。
ダメ男最底辺の日常を描き世の中の屑共に自分より酷い奴がいると夢と希望と安堵を与える救いのバイブル。ではなく、自身の今の生温さや醜さを再確認させる戒めの姿見として自室に鎮座させるべき一冊なのだ。
表題作の一篇だけでも濃厚かつボリューミーで大満足なのだがその他に二篇の逸作が脇を固める。
「寿司乞食」
タイトルだけでもう、ニンマリする。 心機一転、築地市場での仕事が決まり貫多も出来る事ならば長く勤めたいと思っていた矢先に事は起きる。出勤初日の歓迎会で上機嫌でつい呑み過ぎてしまう。明日の仕事にさわらないようにと念を押されていたにもかかわらず。
宴を終え帰路につくも独りになると、酔いというやつは急激にやって来る。嘔吐を繰返しなんとか帰室するも明日の仕事へ行ける状況ではない。
そう、それでいいんだ。
普通に働いて貰っては困る。待ってましたの展開、無欠ばっくれパターンだ。
シチュエーションは違えど僕にも似た経験がある。勤務初日に当面の交通費を前借し、会って数日の付合いしか無い同僚に給料日に返すからと借入をし飲酒とギャンブルでスリ潰してしまう。仕事に行く事すらも出来ず、そのまま連絡もせずドロン。
人の善意や優しさを踏みにじり裏切り続けて来た日々の続きが今の僕なのだ。その会社はライン作業でフルーツ盛りを作っているのだが僅かな傷みであっても商品にならず捨ててしまう。ゴミ捨てを任されていた僕はコンテナ風のゴミ箱にそれらを流し込み捨てる前に綺麗なメロンやスイカをピックアップしてゴミ捨て場で貪り喰っていた。
ゴミがゴミを喰らう、その図は正にフルーツ乞食。
いろんな意味でハングリーだった昔日の記憶が蘇る。
「夜更けの川に落葉は流れて」
連作秋恵物以前の逢瀬を描いたものだが、感受性が乏しく自意識過剰な方にはケチなDV男の悲惨な顚末にしか思えないだろうが僕には美しい純愛ストーリーに思えてしまう。警備会社で同僚の女性と交際に至るのだが、恋人となるや彼女の警備服姿やヘルメット姿を観るのが辛くなり仕事を辞め元の日雇人足に戻ってしまう。
貫多の男らしく、プリティーな一面も観て取れる。交際前には、共用の汲み取り式便所を使用する彼女を哀れみの眼差しで観ているが糞だらけの便器に跨がり尿散らかす図など想像すると官能的にも思えてしまう。
また、デート時にはなるべく長い間、一緒にいたいからと午前中から待ち合わせ、いつものラブホにピットインする迄の流れなど甘酸っぱく微笑ましい。
何でも無い、若人の逢瀬も西村文学の毒を含むとこれが堪らなく面白いのだ。 クライマックスからラストに掛けてなどは、もう、息継ぎも出来ぬ程のリズムでもって、たたみかけられる。 西村文学の真骨頂と言える一篇だ。
「青痰麵」
逆説三顧之礼とも言うべき貫多の執念の深さに頭が下がる。
しかも、これ最近じゃん。
社会的地位や権威も有るであろう、現在の貫多だが、刃を研ぎ、牙を剝き果敢に挑み、サバイブする姿は僕のこれからの人生の礎となるだろう。
西村文学の洗礼を受けてからというもの、その毒は完全に僕の体を蝕んでいる。
尿道から入り込み、陰囊、腸を侵し骨の髄に流れ脳髄までにも転移した。
気づけばもう、手遅れ末期状態の最終ステージまで来ている。
どんな薬も効きはしない。
毒をもって毒を制すだ。
僕にはまだまだ西村文学が必要だ。
オーバードーズしたって構わない。
これからもこの毒を僕の体にぶち込んでやろう。
2018年 冬
自称弟子