雪子さんの足音

木村紅美

1430円(税込)

善意の人たちを捨てた痛み

川本三郎

 木村紅美は「淡い」作家である。

 犯罪、精神異常、超常現象など極端な題材はまず扱わない。貧困や離婚の問題もほとんど描かれない。そもそも「問題」から遠い位置にいる。現代社会に普通に生きている人間の普通の暮しを淡々と描く。アクが強くない。奇抜な状況はまずないし、文章も平明端正。その「淡い」世界が、現代人のとらえどころのない浮遊感をよくあらわしている。

 新作『雪子さんの足音』は、東京の小さなアパートの大家である年老いた女性と、そのアパートに住む若い男子学生の日常を描きながら、そこにひそやかな都市生活者のそれぞれの孤独を見ようとしている。大事件は起らない。二人の関係、それにもう一人の若い女性の居住者が加わった三人のぎこちない関係が、力みのない澄んだ文章で綴られてゆく。

 誰でも生きている限り、他人と関わらなければならない。そして、他人と関わる限り、知らぬまに他人を傷つけてしまうことがある。若い頃は、自分にかまけているので、他人を傷つけたことになかなか気づかないが、大人になって振返ってみると、善意の他人を傷つけていたことに気づく。それが小さな罪の意識になってふくらんでゆく。思い出すことは悔恨を抱えこむことになる。この小説を支えているのは、思い出すことによって生まれる悔恨だろう。

 薫という語り手(男性)は、現在、地方都市で公務員をしている。独身。夏のある日、新聞で、九十歳の老女性が、熱中症で死に、一週間後に遺体が発見されたという記事を読む。

 その女性、「雪子さん」は、薫が二十年前、大学三年生の時に部屋を借りていたアパートの大家だった。大学に入学し、故郷の仙台から東京に出て来て、高円寺の五日市街道の近くにあった月光荘という古ぼけた二階建てのアパートに入居した。

 新聞記事を読んで、薫は、二十年前、月光荘で暮した日々を思い出す。回想の形をとっている。そして回想は、悔恨へとつながってゆく。「雪子さん」の善意に応えられなかったことへの。

 都市生活のいいところのひとつは、村社会と違って、他人の干渉を受けることがなく、好きな時に、ひとりになれることにある。大学で美術史を学び、画家の松本竣介に惹かれている薫は、友人も好きな女性もいることはいるが、それ以上に、都市のひとりの暮しを好んでいる。

 高円寺のアパートの二階に六畳の部屋を借り、ひとりの暮しに満足している。ところが徐々にその暮しに他人が入り込んでくる。

 他人と付合うのがどちらかといえば苦手な若者が、否応なく他人と関わることで、人間関係の面倒な深みにはまってしまう。

 大家の「雪子さん」は、善意のかたまりのような好人物で、そのために下宿人の私生活に干渉してくる。「雪子さん」は、はじめ、まず食事に誘う。一階の自分の部屋に食事に来ないかという。薫は、面倒臭いと思うものの、気のいい大家が善意でしていることだから断わり切れない。

 二十代前半の薫から見れば、七十歳ほどの大家の「雪子さん」は祖母のようなもの。夫にも息子にも死なれ、ひとり暮しをしている「雪子さん」にとっては、薫は孫のようなものだろう。

 天ぷらや、かやくごはんを薫に振るまう。薫が卒論で松本竣介について書くと知ると、「わたしも彼の絵は大好き。美智子皇后もお好きよね。青い色が、シャガールのように独特で」と応じる。相当な教養人と分かる。

 自分の手料理をおいしく食べてくれる薫を見て気をよくした「雪子さん」は、それから薫のひとりの暮しのなかに徐々に入り込む。

 たびたび部屋に誘う。食事を振るまう。薫が断わると「出前」と称して、手作りの料理を部屋に運んでくる。祖母が孫にお年玉を渡すように、薫にぽち袋を渡す。一万円が入っている。薫が仙台に帰省するときは三万円もくれる。

 尋常ではない。薫が見栄を張って、小説を書いているというと「パトロン」になりたいと言い出す。薫の留守中にどうも勝手に部屋に入り込むこともあるらしい。

 都会のひとり暮しを楽しんでいる若者が、老女性の善意によって振り回されてゆく。このあたり、ロマン・ポランスキーの映画にありそうな「密室の恐怖」もある。ただ、無論、「淡い」木村紅美は、大仰にその恐怖を書き立てることはない。

 老女性は「雪子さん」と「さん」付けで呼ばれることで、童女の無邪気さ、可愛さがある。薫はただ、その善意が億劫になる。

 それだけではない。アパートには「小野田さん」という薫と同年齢の女性が住んでいる。岩手県出身。高卒で電話のオペレーターをしている。「雪子さん」と親しく、二人で「雪子さん」の部屋を「サロン」にしている。

 この「小野田さん」もまた、薫に関心を持ち、薫が小説を書いていると知ると、「雪子さん」と同じように、経済援助をしたいと言い出す。ある晩など、薫の部屋に来て、自分のほうから積極的に迫る。

 木村紅美は、普通の人々を描くと冒頭に書いたが、ここまで来るとむしろ「普通のなかの異常」を描きたいのではないかと思えてくる。ただ、ここでも「小野田さん」と「さん」付けになっているので、この女性も決して異常には見えない。濃厚な人間関係を求めるか、そうではないか、の差だけだろう。

 結局、「雪子さん」と「小野田さん」の善意の介入が息苦しくなり、薫は月光荘を逃げるようにして出ることになる。そして、二十年後、「雪子さん」の死を知る。

 恋愛や夫婦愛、あるいは親子の絆ばかりが語られるなか、この小説は、アパートという都市のなかの「もうひとつの家」における人間関係に着目したところに面白さがある。

 最後、現代の薫は、若き日暮した月光荘を再訪する。そして、捨ててきた「雪子さん」と「小野田さん」への悔恨の念にとらわれる。その痛みが読者にも確実に伝わる。