二葉亭四迷が「予が半生の懺悔」と題した談話を発表したのは一九〇八年六月のことだ。同月、二葉亭は新聞社の特派員として念願のロシアにむけて出航する。が、入国直後から体調すぐれず、一九〇九年五月に死没。談話はまるでこの結末を予期していたかのように、饒舌な自己総括に仕上がっている(案の定、後世の二葉亭四迷像をつよく拘束することにもなった)。キーワードは「ヂレンマ」だ。何かをなそうとすれば、たちまち「実際的と理想的との衝突」に直面してしまう。それをやりすごす欺瞞と格闘し続ける半生だった。その苦悩を二葉亭は理路整然と告白する。
かならずこれとペアで参照されるのが、その数ヵ月前の談話「私は懐疑派だ」である。「どんなに技倆が優れてゐたからつて、真実の事は書ける筈がないよ。よし自分の頭には解つてゐても、それを口にし文にする時にはどうしても間違つて来る」。この「真実」と「小説」のあいだの解消されえぬ懸隔に正直なあまり(「正直」も彼のキーワードだ)、二葉亭は『浮雲』を発表したのち沈黙する。およそ二〇年後に出た『其面影』『平凡』は周囲に引っぱり出されてしぶしぶの復活だった。〝日本近代小説の始祖〟と位置づけられる二葉亭が出発早々ぶちあたったこの陥穽に私たちは何度でも立ち戻ってみるべきなんだろう。小説が成立するとすれば、二葉亭のあの自縄自縛の問いを介してのみである。
じつは、本書所収の「未熟な同感者」には、いま引用した二葉亭談話のすぐあとの箇所が引用されている。それ以外にもフローベールやサリンジャー、柄谷行人、夏目漱石、カフカ、ナボコフといった文学者たちの「書くこと」をめぐる言説群が大量に動員され、ほとんど一点を囲繞するかたちで小説論がぐるぐるぐるぐるスパイラル状に組織されてゆく。すなわち、「完全な同感者」(宮沢賢治)はわざわざ言葉を必要とせず、書くのは「未熟な同感者」にすぎないという一点を。それでも「完全」をめざして書き続けるその只中にのみ書く者の真実はある。そんなロマン主義的な投企としてこの小説は読者に差出される。
「私」が回想しつつ書き綴るゼミ内の狭い人間関係ほかあれこれの進展と地続きに、しかしそれとわかるよう太字で、ゼミの教員の講義ノートがかなりのスペースを割いて間歇的に引き写されるというシャッフル構成になっているのだけれど、小説論は基本的に後者にあてがわれる。物語パートと講義パートは一見無関連に隣接していながら、冒頭で「私の思い出話[…]は、この太字にずいぶん脂を吸い取られている」と予告されるとおり、遠近軽重問わず多層的な連絡関係を配備する。それゆえ「私」の語りは、「右のように肥大した文字列」「このまとまった文章」「書き連ねるつもり」といった直示的なものから、微に入り細に入り暗示的なものまで、自己言及に満ちた饒舌なそれになる。
たとえば。講義パートで、「人間としての体験」と「作家としての体験」が両立しない(前者こそが書かれうる)というヴァルザーの認識を解説したのち、それと同型の『平凡』末尾を引くくだりがあるのだけど、そこには次のような物語パートが後接される。「私」は同じゼミ生の間村季那と週二回(英語と第二外国語のあと)、二人きりの雑談の機会をもつ。ある日、季那がこんな話をしてくれる。二年間ほど双子の女子に二教科の家庭教師をしてきたのだが、引越しの関係で、二日前が最後の授業となった。二つ並んだカラの机、姉は鉛筆をもう段ボールにしまっており、妹が貸す……文字にしてしまえばなんということのないエピソードなのだけれど、ほかならぬそのことによって、ヴァルザーや二葉亭の理念を饒舌に体現する。そして、周到に「二」を一所に搔き集め(二葉亭!)、この小説を貫く構成原理を浮びあがらせるのだ。
「未熟な同感者」が「書くこと」をめぐる饒舌ぶりを示すのに対して、「二」的に本書に同梱された表題作「本物の読書家」は「読むこと」をめぐって饒舌ぶりを発揮する。
「わたし」と大叔父と偶然乗り合せた田上、男三人の電車内での会話というミニマルな設定で進行するのだが、およそ一章おきに物語をポーズしては、出来事を「記録」する語り手=「わたし」の読書(家)論が挿入される。そこでも大量の言説がパッチワークされ、作品全体の思弁性を高める(固有名の多くは「未熟な同感者」と共有される)。議論は終盤の次の一節に収斂してゆくだろう。「﹁事実は小説より奇なり﹂だとするならば、その事実の構成員に本物の読書家は含まれない[…]。本物の読書家は事実の中に棲まうことを拒否する」。ここにいう「本物の読書家」は、「未熟な同感者」でいう、真実に到達しえぬことをあらかじめ知っているにもかかわらず書き続けてしまう者と表裏にある。
著者のデビュー作「十七八より」│叔母の死を「未熟な同感者」と共有│に対しては、好意的であれ否定的であれ、微調整に微調整を上塗りした文体の過剰な自意識に特化した評言が並んだ。けれど、受賞第一作「本物の読書家」はその文体を維持しつつも、物語の展開へもちゃんと読者の目がむかうような仕掛けを随所に施してある。大叔父の手元に川端康成からの手紙が存在するのではないかという噂の真偽の解明がその最大のもので、ミステリ仕立ての構成はエンタメとしても十分に通用するはずだ。
じつをいうと、本書は二作ともに、ペダンチズムを芸として押しとおすには引用元のセレクションが微妙(ベタ)なんじゃないか、小説空間の自律性をめぐるメッセージがあまりに言語化されすぎてないか、と判断を留保しながら読み進めた。にもかかわらず確実に最後まで頁をめくらされたのは、やっぱり「本物」だからなのだろう。書物の引用で構築される教養主義的な世界認識、文学(偽)史を備給点とした純文/エンタメの境界壊乱、饒舌体を梃子にした前衛的な言語実験。どれをとっても古そうでいて、それゆえにかえって新たな可能性をひめている。きっとシーンを組み替える力になる。