日曜日の人々(サンデー・ピープル)

高橋弘希

1540円(税込)

死の欲動に対抗しうるもの

江南亜美子

 思い起こせば、高橋弘希の二〇一四年のデビュー作『指の骨』は、太平洋戦争のさなか南方戦線の野戦病院に収容された一兵卒の置かれた状況を、克明に描き出した作品であった。若き作家のデビュー作とは思えぬ落ち着いた筆致と、青年の肩口の傷の痛みや土の感触まで確かに伝わってくる描写力が高く評価され、芥川賞候補作のひとつとなった。一方で、大岡昇平『野火』をも彷彿させる作品の題材は、なぜいま戦争文学なのかという疑義を読者に、また、賞の選考委員にもたらした。あれから三年。コンスタントに作品を発表し続けてきた著者の最新刊『日曜日の人々』を読めば、『指の骨』で目指されていたものが、事後的に理解できる気がする。戦時から二〇〇〇年前後の関東圏に物語の舞台を移しても、まったく変わらない作家の核のようなものが、透けて見えてくるのだ。

 大学生の航が、従姉で同い年の奈々を差出人とする宅配便を受け取るところから物語は始まる。彼女は自ら命を絶ったばかりで、生前に発送されたらしい手記とおぼしき紙の束には、知らない奈々の一面が記されていた。死に「REM」という集団が少なからず関係すると知った「僕」は、スパイよろしく、そこにコミットしてゆく。

 レムはマンションの一室で定期的に集会を開いている。そもそもは不眠症を患う者同士の交流の場だったが、いまでは拒食症のひなの、盗癖のある佐藤ビスコ、自傷する杏子など、集う者の悩みは千差万別だ。「僕」も会に出入りし始める。従姉の自死の真相を探る動機が正義感か、未知の世界を覗ける好奇心かは判別つかない。

 薬物やアルコール依存からの脱却を目的に集団精神療法的なセルフヘルプの活動を行うNPOなどは、日本でも今日認知度をあげているが、レムにはもう少しアンダーグラウンドな匂いがある。初代の管理人を始め、何人もの自殺者を出しているのだ。しかし医療機関との連携といった手はとらない。会は何かを嗜好する人々のたまり場で、大局的には互いの死への欲動を肯定しあうことで連帯している。たんなるやじうまであったはずの「僕」も、内偵者がしばしばそうなるように、レムに深入りし、管理人の吉村から自殺幇助を婉曲的に持ち掛けられた際も肯うまでになる。死の欲動の感染力の強さは、本作のテーマのひとつだ。

 レムの中心的活動は、参加者があらかじめ書いてきた身の上話をみなで聞く「朝の会」と、その発表原稿を「日曜日の人々」という冊子にまとめること。奈々が送ってきたのは、じつはこの原稿であった。「僕」が人間関係を理解するのに合わせ、奈々をはじめとする会のメンバーの原稿のいくつかが差し挿まれ、読者にも彼らの抱える問題があらわになっていく構造で小説は進む。そのベールのはがれていくさまはなかなかにスリリングである。

 十四歳の夏の日に戯れの結果かいま見えた奈々の胸元は真っ白だったが、六年後、大学で再会し性的関係を持とうとした際には、自傷の痕が醜くあった。義理の父の連れ子(義兄)に犯されたあげくの妊娠から死産へ至る熾烈体験と、それに先立つ実父の自死が、自傷を習慣づけたと冊子にはある。しかしながら読者は、あるいは航もまた、そのやたらとドラマ性の高い自傷要因が「真実」なのか判断しうる客観的な証拠を持たない。

 ひなのは自身の境遇の凡庸さ・普通さゆえに、拒食という病理を環境のせいにできなくて残念だといい、ビスコも〈爾来、私が盗みを働いたことは、神仏に誓って、一度たりともありません〉と綴りながら、盗品だらけの部屋で暮らした。会は他人の耳を必要とする。取り繕い、虚実ないまぜの心情を吐露するのが必定の会にあって、誰の「日曜日の人々」も、切実さとフィクション性がコンバインされる。

 奈々は〈傷口は言葉だ〉と書き、ひなのの主治医も〈僕は拒食も過食も言葉だと思っているよ〉という。自傷は個人では抱えきれない感情が内向したもので、つまり彼らは絶望と苦悩が基調の人生観においてなお、他者とのコミュニケーションと連帯を切実に求め、会は受け皿となる。人間の孤独の本性、そしてカルト集団がいつの世も存在する意味は、ここにあろう。しかし書かれたものの集積である冊子こそが、逆説的に、言葉によるコミュニケーションの不可能性をあぶりだす。傷口だけがホンモノ。言葉と傷口の戦いにおいて、言葉は分が悪い。原稿という言葉を残しながら、その不可能性に絶望するように、奈々も、レムの現管理人も安易に死を選んでしまうのだから。

 言葉は無力か。そう問題を設定した上で、高橋弘希自身が、その問いに真っ向から挑んでいるように見えるのが、本作の面白い点だ。彼は克明に、精密に事物を描写しようとする。刃物が肌を切り裂く際の血の飛沫を。低体重に陥った際の脳の働きを。腐乱したり肉片と化したりする肉体の物質性を。情緒を排し、言葉を尽くして描くのは人間がモノでしかない有り様である。

 死もあっけない。最終盤、死の欲動に感染した航もまた集団自殺を図り、しかし死線を越えずに戻って来る。有機物である以上、器官は朽ち、蛆もわくが、それを精緻に描写する言葉を有するのもまた人間なのだと、本書はメッセージを読者に投げかえすのだ。著者の異様なほどの描写への執着と迫力、言葉への信頼が、ここにはある。

 生の領域へ、明るいほうへ、導かれるがごときラストシーンは、おそらく一種の感動を読者にもたらすだろう。『指の骨』は人間のモノ性にいかに言葉で肉薄するかに力点が置かれていた。戦争小説らしからぬメッセージ性の希薄さが、一部の読者に物足りなさを覚えさせた。本作は、物質としての人間を描かんとする著者のストロングポイントはそのままに、傷口ではなく言葉を! との強いメッセージも響かせる。間違いなく著者の新境地を拓く一作だ。