三島由紀夫の晩年の肉声の記録としては、文芸批評家の古林尚による、自決一週間前(一九七〇年十一月十八日)のインタヴューが有名である(『三島由紀夫 最後の言葉』新潮社)。自衛隊市ヶ谷駐屯地での最後の「行動」を目前に控えた時期だけに、三島の文学、思想を理解する上でも非常に価値が高い。古林は、元々三島文学に批判的だったらしく、三島もそれを意識してか、幾分構えつつ、慎重に言葉を選びながら自らの小説家としての歩みを総括するような話をしている。
今回TBSで発見されたインタヴューは、それに対して、一九七〇年二月十九日収録と、死までまだ九ヶ月ほどを残しており、またインタヴュアーのジョン・ベスターが、短篇「海と夕焼」と本書併録のエッセイ『太陽と鉄』の翻訳者だっただけに、一定の共感を前提としたリラックスした口調になっている。丁度、『豊饒の海』第三巻を脱稿した当日らしく、そこはかとない疲労も感じられる。因みに「小説とは何か」というエッセイの中では、この「暁の寺」脱稿時の心境として、「実に実に実に不快だった」という言葉が遺されている。
インタヴュアーとしてのベスターは、控え目だが率直で、外国人らしく、三島が〝現代日本〟について語る度に──演劇の堕落であれ、社会の堕落であれ、あるいは偽善についてであれ──、「それは何も日本だけのことじゃないでしょう。」と疑問を呈している。
三島の四十代の憂国論は、基本的に戦後日本社会の全否定で、その意味では、昨今の国粋主義的な「日本スゴい!」とは凡そ対極的だが、それにしても、三島が非難した社会の頽落は、必ずしも戦後日本に特異な現象ではなかった。それは、近代の問題であり、資本主義の問題であり、大衆消費社会の問題、そして民主主義の問題だった。なるほど、それらは〝普遍的〟、或いは少なくとも西洋的であったからこそ、日本文化の固有性を「むしばんで」いったというのが、三島の主張だともいえようが。
三島の批判は、それが具体的である時には、しばしば唸るほどに冴えている。歌舞伎の批判は、ここだけでなく方々で見られるが、それ自体は、見巧者として、或いは劇作家としての実感のこもった、説得力のあるものである。日本語についても、「漢文学の教養がだんだん衰えて」きて、「文体が非常に弱く」なったというのは、その通りだろう。
しかし、そこから「文化防衛論」に顕著な天皇中心の日本論に飛躍した途端、人は困惑せざるを得なくなる。何も、左右の対立の話をしているのではない。もっと遥かに単純に、例えば、三島の小説は、欧米文学の多大な影響下にあったし、彼の日本語が「西洋的な思想構造」に学び、「言葉の使い方とかなんとかが西洋的」であるのは明らかだった。それは決して、「文化的天皇」が象徴する日本文化の「連続性」、「再帰性」には収まりきれないものであり、文化の「全体性」という彼の主張するもう一つの特徴も、外国文化に開かれている、などという意味では決してなかった。有名な三島邸にしても、コロニアル様式であり、庭にはアポロン像が建っている。そういう矛盾を、彼の哄笑に紛らされることなく、真顔で問い質し、彼の反動的なナショナリズムを中和する質問者が、早い段階でもっといても良かったのではないかと、私はいつもながらのことを考えさせられた。
本インタヴュー中に見られるこうした一種の飛躍として、今日、政治的に注目されるのは、その日本国憲法観だろう。三島は、所謂「押しつけ憲法」論に立って、これを「偽善」の根源として批判する。ベスターはやはり、まったく穏当に、「結局、多くの人は非常に素朴な気持ちで、素直な気持ちで、平和憲法を支持しているんじゃないでしょうか。」と問うている。対して三島は、九条のとりわけ第二項を挙げて、自衛隊は違憲であり、にもかかわらずこれを認めていることを「人間のモラルをむしばむ」(傍点平野)という意表を突く言葉で批判している。彼が市ヶ谷で「行動」を起こした時も、その「大義」は、憲法改正だったが、昨今の改憲議論でこういう三島が再び引用される可能性はあるだろう。
三島は、「僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動のほうがわかりにくいんだという自信がある」と語る。それ故に、彼の文学を彼の思想、政治的行動から切り離して考えようとする人もいる。しかし、彼の思想、文学こそは、その不可思議の実体としての生の表れであることは間違いない。 三島自身が「あれを読んでくれればわかる」と言う「太陽と鉄」は、筋肉と言葉とを、片やトレーニング器具の「鉄」と、片や書物と組みあわせて、鍛え、造形し得る外在的な異物として、対照的且つアナロジカルに、同格に語ってゆく。三島は、両者の均衡と最終的な一致を夢見つつ、その無理まで既に予感していて、全体に明晰だが、混沌としており、その暗い情念のレトリックに充ち満ちた文体には、異様な迫力がある。その孤独な個性は、苦痛という、決して死そのものではなく、むしろ死への接近を告げる生の警報を鳴り響かせながら、「絶対」の「悲劇」を渇望する共同性を夢見る。しかし、その「同苦」の「戦士共同体」は、『金閣寺』で語られた滅亡のユートピアよりも、ましてや天皇制よりも、更にその構成員を限定する隘路へと追い込まれている。三島を考える上で非常に大きな示唆を与えてくれるドイツのエルンスト・ユンガーが、独自の形態学に基づいて「剣を持つ腕を動員するだけでは十分でなく、骨の髄までの動員、最も精妙な自律神経にまで至る」総動員を求め、「少なくとも間接的にさえ戦争遂行と関わりをもたない運動は──たとえ自分のミシンで作業する女性家内労働者のそれであれ──、もはや存在しない」と主張したこと(『総動員』)と対比的にも見られよう。
没後五十年の大きな節目に向けて、三島という存在は再考を求められている。