使い勝手のいい叱責に「親の顔が見てみたい」があるけれど、ふと立ち止まって考えると、この上なく旧態依然とした叱責である。当たり前のことだが、誰かの言動とその親の顔はいつだって無関係。そもそも親の顔を見たことがない子供だっている。昨今、小学校の行事として定着しつつあるのが「二分の一成人式」。一〇歳を迎えた記念に体育館などで式典が開かれ、親に感謝の手紙を書いたり、親から名前の由来を聞き出して発表したりするのだという。様々な事情で名付けの親がそこにいない可能性を考えてはくれない。感謝を伝える親がいない子供たちはどうすればいいのか。こういう時、教育の「正しさ」は、わざとそこに鈍感になる。正しい教育と補完関係にあるのが正しい育児だ。「正しさ」の周りで「これは正しくない」と、いくつもの所作がふるい落とされていく。しかも、その正誤を決めるのが、世間などという、ものすごく曖昧な枠組み。曖昧なくせに屈強な世間とやらは、至らない当事者を袋叩きにする。世論が正論に化け続けながら、自由気ままに人それぞれの育児を踏み潰していく。とっても苦しい。
本書はその世間を「どうでもよくね?」と語尾上げで変革しようと企むホストたちの物語だ。ホストクラブの店長・白鳥神威は「ウェーイ! ウェイウェイウェイ!」という謎めいたかけ声に見送られつつ、北新宿一丁目にある六階建てのデザイナーズマンションへ帰る。ある朝、鰐皮ブーツをこつこつ鳴らし、クリーンなエントランスに導かれ、エレベーターで六階へ上がると、部屋の前に、ベビーカーに乗せられた赤ん坊がいた。赤ん坊の上に置かれたノートの切れ端には「神威さまへ よろしくお願いします」とある。数々のセックス、その相手を脳内でプレイバックするも特定には至らない。神威は、その赤ん坊を見つめながら、こう思う。「想像力は輝かしい未来をつくるためだけに使われるべきだ」「新たな試練を前に逃げることはカリスマホストの本能が許さない」。神威は子供を育てることに決める。
ホストという性質が持つ楽観性。この楽観性が世間の子育ての「正しさ」を切り崩していく。減点方式で子育てを査定する悲観的な世間を、「ウェーイ!」と楽観的に喝破していく。「今日からこの店でこの子を育てることにする」、神威の唐突な宣言に対し、誕生日の月に一〇〇〇万円を稼ぐ伝説を打ち立てた綺羅木ヒカルが手を上げる。「トイレ掃除……どうします?」。新人がトイレ掃除を担当するルール、ならばこの赤ん坊がトイレ掃除を担当するのが、この世界のルールだ、と。ここで起きているのは「なにが起きているのかわからないほどの高速思考戦」なのだ。
赤ちゃんを育て始めたホストクラブを、「夢を見に来てるのよ」「しばらく来ないわ」と言い残して常連客が離れていく。経営の危機に瀕して思いついたのがクラウドファンディングによる子育て。その名も《レジェンド・オブ・赤ちゃんプロジェクト》。「0歳児のホストが降臨」、これは「キリスト誕生を凌駕する人類史上最強イベント」だ。名付け親になれる一五〇〇万円の「ゴッドファーザープラン」、抜けた乳歯の贈呈や中学受験進路への介入などが可能になる一〇〇〇万円の「小学校プラン」など、赤ん坊の子育てを切り売りする。とにかくプロジェクトを認知させよ、炎上を恐れてどうする。「ウェーイ!」の精神で投稿されたのが「赤ちゃんがシャンパンタワーにおしっこを漏らす」写真。ホストが集う。「これからますますの炎上を祈って乾杯!」。
神威は、父親が三〇歳の時に、たまたま呼んだデリヘルの女と、共に泥酔しながら避妊を忘れて生まれた子。そんな神威に対して、ゲイの友人が口を開く。「生物の基本原則は種の繁栄じゃなく、生き残るための多様性の確保だ」。あるいはホストクラブから離れていった女性が電話口で話す。「女の幸せが子供を産むことだなんて旧弊な価値観にはほんとうにうんざりよ。でもね、その価値観を完全に否定できない自分がいるのも事実なのよ」「あなたの作る新しい価値観に期待してるわ」。風向きが少しずつ変わっていく。
世間はいつまでも、やっぱり子育ては母親がやるべき、と思っている。イクメンという言葉はあっても、イクウーマンという言葉はない。ウーマンがするのが当然と思われているからだ。普段からハイヒールを履いているからこっちのほうが歩きやすいと言っても、ハイヒールで子育てなんてもってのほか、と世間は言う。でも、すぐには覆らなくても、実際に履き続ける人が出てくると、選択肢のひとつになりうる。ならば「鰐皮ブーツ」もその選択肢になるのではないか。「ウェーイ!」だけじゃ足りないと「ウェイウェイウェイ!」と重ねていくホストのシンプルな姿勢が、今の子育てには足りない。読み進めていくうちに、ホストの図太い楽観性こそが育児に有効なんじゃないかと思えてくる。「親の顔が見てみたい」には、親の顔なんて見えなくてもよくね? 親の顔を知らなくてもよくね? と語尾上げで返せばいい。「ウェーイ!」のコールで消してしまえばいい。
このところの為政者たちは、家族愛・親子愛を再認識しましょうというスローガンと、子供は社会全体で育てましょうという二枚舌をそれぞれ分厚くして、個々人へのプレッシャーをいたずらに増やしてくる。保育園に入れない子供たちがいるなら、基準を緩和して、もっとたくさんの子供たちを押し込めるようにしよう、なんて考えまで浮上させる。本書には表題作の他に、赤ちゃんの六年後を描いた「キャッチャー・イン・ザ・トゥルース」が収録されているのだが、そこで謳われている「チルドレンファースト」という政策には、いくつもの皮肉が折り重なっている。ここで作り出された未来は、解決済みの未来と言えるのかどうか。子育てに必要なのは減点ではなく、「ウェーイ!」という加点にあるのではないか。「ウェーイ!」と繰り返す人々の間で、先んじて「一億総活躍社会」が実現してしまうのが面白い。