保苅瑞穂は何よりもまず、『失われた時を求めて』をめぐってこのうえなく透徹した本を書いた人である(『プルースト・印象と隠喩』、『プルースト・夢の方法』)。しかも驚くべきは、精緻に練り上げられたプルースト論の後、保苅がモンテーニュに取り組んだことだ。動乱の十六世紀を生きた『エセー』の著者への親炙と、綿密な『エセー』読解に支えられた名著『モンテーニュ私記──よく生き、よく死ぬために』は、いまでは文庫のかたちで読み継がれている。そこに数年前、四百七十ページの大著『ヴォルテールの世紀──精神の自由への軌跡』が出ていよいよ驚嘆させられた。啓蒙思想の代表者に向けられた真摯な共感は、それまでの保苅の著作からはちょっと窺えないものだったからだ。十八世紀への保苅の想いが並々ならぬものであることは、続く『恋文──パリの名花レスピナス嬢悲話』によって証明された。これはサロンの女王として君臨し啓蒙哲学者たちと親しく交流しながら、秘められた激しい恋のドラマを生きた女性の姿を掘り起こした四百ページを超える評伝である。レスピナス嬢のことを何も知らない読者でも、小説的興趣みなぎる長編としてむさぼり読まずにはいられない面白さだった。
フランスの諸世紀を横断し、異なる大作家について読み応えのある本を次々に上梓するなどということは、万事が極度に専門化と細分化の道をたどっている現在、保苅以外にほとんど例のない仕事のしかたである。しかも保苅の美しい文章はつねに潑溂として喜びにあふれ、愛する対象との繊細な交感のスリルに打ちふるえている。確固たる専門的な知見に支えられながら、そこにはひたむきに愛する人(アマトウール)としての優しさや含羞がつねに漂っている。偉大な業績が決して威圧的な感じを与えないのはそのためだ。
保苅の書物を愛読してきた一人として、この新刊にはひときわ大きな感慨を誘われた。保苅にとってモンテーニュがプルーストに匹敵するほどの作家であることを改めて認識させられたからだ。折からわが国では近年、宮下志朗による『エセー』の新鮮な個人全訳が完成し、またアントワーヌ・コンパニョンの『寝るまえ5分のモンテーニュ』も話題を呼んだところである。四百年前の異国の文学者が、かつてなくわれわれにとって近しい存在になろうとしている。そんな喜ばしいタイミングでこの書物が登場したのである。
高等法院の評定官、さらにはボルドー市長として有能ぶりを発揮しながら三十八歳で公務を退き、屋敷の塔にこもったモンテーニュは、「とにかく思いついたことをなんでも手当り次第に書いてみよう」と『エセー』の執筆に着手する。以後、この世を去る直前まで二十年にわたり書きつがれた書物の成り立ちと、モンテーニュその人の生き方を、著者は悠然たる構えで吟味していく。本書を読み進めるほどに、なぜモンテーニュが今日もなお共感と憧れを呼ぶのかがつくづくよくわかってくる。人々が互いに狂信を競い合う乱世にあったにもかかわらず、モンテーニュの精神のうちには曇りなく強靭な合理性と、現世を強くうべなう思想がつねに脈動していた。しかも彼にとって精神とは、逞しく快楽を求める肉体と「おなじ梶棒につながれ」て不可分の統一体をなすのでなければならない。そんな心身を与えられてこの世にあることの幸福を十全に味わってこその人生なのであり、だからわれわれは「髪の毛一本にいたるまで大切にしなければならない」と彼は記す。生きてあることへの無条件の愛着は、「人間はだれでも人間のありさまの完全な形を備えている」という言葉が示すとおりの根源的な平等の観念、人間性への信頼に支えられている。それゆえに彼は、絶対王政下にあっても「私の理性は折れ曲がるようには教えられていない。折れ曲がるのは私の膝である」とあっぱれな一言を書きえたのだし、「魂の偉大さは偉大さのなかでなく、中庸のなかに発揮される」と、つつましく日常を生きる者のだれをも鼓舞する言葉を記しえたのだ。
しかもモンテーニュの歩みをつぶさに見るとき、中庸が彼においては決してなまぬるい日常への埋没を意味するのではなく、それどころか存在の条件を限界まで突きつめて考えるようなラディカルな問いかけによって鍛えられた概念であることに気づく。そこには自己の身体の衰えをめぐる徹底した思索があった。若いころから「一瞬ごとに自分が脱け出して行く」ことの不安に晒されていた彼は、「老いの山道」をどのような覚悟をもって登ったのか。「死は避けられないものである以上、死がいつ来ようと、どうでもいいではないか」という大悟に達するまで、いかなる経験と思考を重ねたのか。『エセー』は実は死をめぐる省察の書だという観点からそれらの問題が詳細に論じられる後半の展開は、著者が最初のモンテーニュ論の成果を引きつぎながらさらに読みを深め、この剛毅な肯定的精神の真髄を摑み取ったことを感じさせる。「だから死ぬのをいとわないことが見事にふさわしいといえるのは生きることを愉しむ人たちだけなのである」。これこそモンテーニュ晩年の「もっとも深い、それでいてもっとも平明な思想の一つ」という著者の意見に読者は心から賛同することだろう。最終章が「生命への讃歌」と題されているのはまさしくモンテーニュにふさわしい趣向なのだ。
全十四章をとおして丹念に描き出されるモンテーニュ像の、人間的な威厳と温かさに満ちて何と魅力的なことか。書斎の人とはいえ、モンテーニュの書斎はプルーストの評するとおり「無限にむかって開かれている」のであり、友情や旅や女性とのつきあいをとおし彼の書き物はたえず豊穣さを増していく。『エセー』の尽きせぬ興趣と、それを論じる保苅の濃やかでみずみずしい筆致にたえず感嘆を誘われながら、大冊を実に心地よく読むことができる。読み終えたのちも、この本を書架にしまい込まず手元に置いて、ときおり気に入ったページを開いては文章を辿り直す喜びに浸りたいと思わずにはいられない。