何ともかとも生きづらい。どうあがいても楽になれない。ならばいっそ自分自身をいったんシャットダウンし、そのうえで再起動してみたらどうか。その際、ちょうどコンピュータを「セーフモード」で立ち上げるように、いつの間にか自分に付け加わってしまった余計な機能──気遣い、自尊心、見栄、猜疑心、ねたみ、ひがみ、心配、不安、さらには自殺念慮、等々──はぜんぶオフ設定にしたまま、必要最低限の機能だけが使える状態でリブートする。そうしたらどれほどの安息が訪れることだろう。さあ、みんなで楽になりましょう。
岡本学『再起動』の表題作の語り手にして主人公の「僕」は、そんなシンプルな教義を掲げる「リブート教」を創設する。いや、創設というよりむしろ、もともとシステム・エンジニアリングのベンチャー企業を経営していた彼にふさわしく、宗教もどきの一システムを「設計」し「構築」したと言うべきかもしれない。当然、「僕」は教祖ではない。システムが滞りなく作動しつづけることに挺身する単なるサポート・スタッフ、すなわち「ヘルプデスク」でしかない。目的はむろん衆生の救済ではなく金儲けビジネスであるが、欲をかいて過分なお布施を信徒に強要したりはせず、三千円という控えめな月額会費を徴収するにとどめる。「これは新聞購読料を目安にそれより安く設定した値段だった」。入退会は自由で無理な勧誘もしない。かくしてシステムはきわめて慎重に、巧妙に、合理的に設計され構築された。
その甲斐あってこのインチキ宗教ビジネスは予想外の成功を収める。そこまではよかった。ところが、あろうことか自分は本当に「再起動」し遂げたと称する信者が出現するに至って、システムは自壊の様相を呈しはじめる。もともと「再起動」の観念など、いい加減な思いつき、口実、与太、でまかせのはずだった。なのに、心底本気の「再起動者」が現われ、あまつさえその数がどんどん増えてゆくとは、こはいかに。たちまち地域共同体との軋轢、警察の介入、思惑絡みの第三者の容喙など、新興宗教に付きものの様々な困難がどっと「僕」に襲いかかってくる。
「リブート教」なるシステムの基盤をなすのは、煩悩の苦しみから解脱の浄福へと至る目的論的ストーリーであるが、ただし解脱の境地としての「再起動」は、決して到達されてはならない最終ゴールでもある。システムがシステムとして機能するために、システムの目的の実現自体はどこまでも先送りされつづけなければならない。これは設計思想の中に織り込み済みの、明快にして衛生無害な逆理にすぎないはずだった。ところが、システムが匿名の諸力に衝き動かされ、設計・構築主体の思惑を裏切って野放図に暴走しはじめるや、安全弁の役割を担うはずだったこの逆理はうち砕かれ、システムは崩壊の危機にさらされる。
そのとき物語は「設計編」「構築編」「完成編」に続く最終段階の「運用編」に突入する。今やシステムにはメンテナンスが必要だ。どうやら不具合と不安定化を引き起こしている厄介なバグか何かが存在するらしい。つまるところ、他ならぬ「僕」自身こそそれだったという残酷な真実が告げられる。「あなたの役割は終わりましたよ」。自己目的化した完成形態へのプロセスを自律的に追求しはじめたオートポイエティックなシステムにとって、みずからの設計と構築に関与した人間主体とは今や、排除しなければならない邪魔者でしかない。いや、わざわざ排除するまでもない。主体それ自身をリブートし、緑色の輝きに包みこんでシステム内部に同化吸収してしまえばいいだけのことだ。「僕の、再起動だ」。そのとき、「再起動」の概念は「死」のそれへとかぎりなく接近する。
無駄のない簡潔な文章で綴られてゆくこのきわめて「現代的」な寓話がわれわれに授けてくれるのは、システム論的世界観はその完成可能性の保証と引き換えに、破綻への過程の萌芽を必然的に抱え込むほかはないという教訓だろう。その必然性の土台をなすものは、人間は結局人間でしかないという絶望的に退屈なトートロジーでしかない、と言ってしまってはシニカルにすぎるか。結局、自身が残る隈なくシステム化されてしまうのに耐えられるほど強い人間など、「僕」も含めて誰もいはしないのだ。そんな弱者にとっては、気遣い、自尊心、見栄、猜疑心等、一見不必要と見えたあれらの「付加的」機能こそが実は、生への執着を可能にする「本質的」機能だったのか。さもなければ、「人間」の概念自体のまったく新しい定義を模索するほかないのか。
本書にはもう一篇、「高田山は、勝った」と題する洒落た短篇が収録されており、これもまた、システム設計者がシステムに裏切られ、敗北してゆく物語である。考えてみれば、岡本学の前作『架空列車』もまたまったく同じ主題による物語にほかならなかった。情報工学の専門家である岡本氏は、どうやら彼の内奥に潜む根深いオブセッションを粘り強く追求し、それにアレゴリカルな表現を与えようと試みつづけている気配である。
「再起動」の「僕」は最後に「緑色の、なでるような、やさしい光」に出会い、「高田山は、勝った」の主人公は「神は確かにいる」という認識に達して思わず頭上を見上げる。アインシュタインの言ったように神はサイコロを振らず、しかしその代わりに、システムを徹底的に管理し運用し、合理非合理の二元論を超えた究極の厳密さで統制しつつ、しかも時として人間には窺い知れない気紛れでそこに突拍子もない偶発事を導入し、かくしてわれわれ無知な衆生を嘲笑しているかに見える。「人間」の再定義と先に言ったが、ひょっとしたら希望は、人間=システムの残る隈なき合体と融合の果てに垣間見える、「超人」の誕生の可能性にあるかもしれない。そう考えるとき、本書『再起動』は、システム工学ならざるシステム神学とでも言うべきものの背徳的な教理の輪郭を粗描する、ニーチェ的寓話なのではないかという妄念が頭を掠めずにはいない。