本書の最初の章にこうある。古典的な哲学書を読みとくことで、ひとは「世界をそのつどべつの視点から生きつづけてゆくことができる」と。古典的な哲学書の読解は、世界を反復的に生きなおす経験だ、と。そして本書は、カントの第三批判、『判断力批判』を徹底的に読みぬくことで、われわれ読者に、まさにそうした生の反復を体験させる力を秘めている。
『判断力批判』は、直感的判断(趣味判断)について論じたテクストだとされている。だが、カントの第三批判に賭けられていることは、本書で著者が示しているところに従えば、美学的な主題よりも広い。いや、人間が生きる上でどうしてもぶつからざるをえない、不可避的で普遍的な問いが、『判断力批判』の思考を駆り立てている。世界は、われわれを受け入れているのか。世界のなかでわれわれの存在は有意味なのか。
この問いが、趣味(美しいものを判定する能力)とどう関係しているのか。本書のカント読解の流れにそって説明しよう。
まずは、趣味判断あるいは美とは何か。これが、カントの「カテゴリー表」の四つの契機に即して検討されるのだが、中でも重要な命題が、「関係」の契機における美の定義。美とは目的なき合目的性である、と。有名な言明だが、わかりやすくはない。たとえば机は、特定の目的(その上で文書を作成する等)にふさわしい形や機能をもつ(目的のある合目的性)。美しいものは、しかし、何か目的に依存して存在しているわけではない。にもかかわらず、対象に対して、「ふさわしい」という心地よい印象をもつことがある。それが「美しい」ということだ。特定の目的はないのに、合目的性の形式だけはある。趣味判断に関して、もうひとつ留意しておいたほうがよいことは、「量」の契機との関連でいわれること。趣味判断は、主観的なものだが、普遍性への要求をともなっている。
ところで、カントにとって、「悟性(認識能力)がかかわる自然の領域」と「理性(欲求能力)がかかわる自由の領域」を峻別することは死活的に重要である。自然の傾向性から、自由な主体が従うべき道徳法則を導くことはできない。世界は有意味な生を可能にしているのか、といった問いに直接的に関係するのは、倫理に関連した自由の領域である。ここで自由とは、別の目的の手段としてではなく、自らを目的として行為すること。
自然と倫理とを厳然と区別しなくてはならない。とすると、しかし、困ったことが生ずる。では、世界の中のどこに自由概念が位置づけられるのか。自由や目的が棲まう場所はどこにあるのか。ここで、判断力が、自然と倫理の二つの領域を縫合する役割を果たす。
悟性は、普遍的なもの(規則)を認識する能力。理性は、普遍的なものによって特殊なものを規定する能力。それらに対して、判断力は、普遍的なもののもとに特殊なものを包摂する能力である。とくに、普遍的なものがあらかじめ与えられていないときの判断力を反省的判断力と呼ぶ。反省的判断力は、無限の多様性を呈する自然を、一個の秩序としてとらえようとする。このとき、自然そのものがなんらかの原理にしたがって差異化したり、種別化したりしていることが前提にされる。こうして、反省的判断力は、自然の根底に合目的性をおくことになる。「目的」が、反省的判断力によって、自然のうちに措定されるのだ。趣味判断は、反省的判断の一種である。いわば、美によって、自然と自由が架橋されるのである。
しかし、これで問題が解決したわけではない。直感的判断力が見出す合目的性は、主観的なものにすぎない。客観的で実質的でそして内的な合目的性はあるのか。要するに、自然そのものに内的な目的があるのか。それを判定するのが、目的論的判断力である。
だが、自然そのものについて「目的」なるものを簡単にはいえない。たとえば結晶は精妙で技巧的で美しくもあるが、それを、目的概念によって説明してはならない。「自然の目的」はあるのか。それはどのような意味で認められるのか。この論点をめぐる本書の──カントを読み解きつつ続けられる──最後の三分の一の展開は、苦難に満ちた登山を思わせる。少しずつ高い場所にベースキャンプを設置して、頂上を目指す。苦労の末に前進し、ここはもう頂点かと思うと、そのたびに、「いやまだだ」といわれ、再出発する。だが、登山自体にも楽しみがあり、登頂するまでの過程で、「目的論的判断力のアンチノミー」等の興味深い概念やアイデアに、たくさん出会う。
最後に結論が導かれる。ヌーメノン(思考する者)としての人間こそが、世界創造の究極的目的である、と。ほんとうか。多分、著者もこの結論には、微妙な疑いを残している。だが、正しいとすれば喜ばしい。人間は世界に歓迎されている、ということになる。
本書は、緻密な論理の積み重ねによって、読者をここまで連れてくる。説得力の最も大きな源泉は、しかし、論理よりも直感にある。自然の中の美しいものの普遍的な妥当根拠を問う演繹の中で、自然は「超感性的な次元」の存在を仄かに暗示する。自然が人間に「目くばせ」を送っている。この比喩が、本書で繰り返し登場する。自然のこの好意が幻想ではないことを示すために、論理がある。
以上に紹介してきた展開に、乱調があるとすれば、「崇高」が登場する場面だろう。崇高な対象は、美的な対象とは違い、まずは、反目的性として、不快なこととして現れるからである。カントによれば、崇高なものは、人間の超感性的な使命の感情を呼びおこすというかたちで、メタレベルの合目的性に取り戻されはする。しかし、この展開は我田引水的だ。むしろ、崇高さには、思索の展開を別の方向に導く開口部があったようにも思える。
ともあれ、以上の簡単な紹介からも感じられようが、本書は確かに稀有なレベルの充実した読書体験を与えてくれる。『判断力批判』と並んで、本書自体が、生を見なおし、世界を編みなおすもうひとつの古典となろう。