芥川賞受賞以降、ひょっとしたら同時受賞の又吉直樹以上にメディアへの露出が激増し、テレビにも出まくっているという羽田圭介だが(私はテレビを見ないので実際のところはわからない)、人生が一変したと言っていいだろうそんな怒濤の日々の渦中で、こんな野心的な長編小説が黙々と連載されていたとは、いまや著者の顔とキャラを認知するお茶の間の方々のうち、果たしてどれだけの数のひとが知っていることだろうか?
と、この問いは、そのまま本作のテーマに直結している。これはいわゆるひとつの「ゾンビ小説」である。原因は定かではないが、世界中のあちこちで屍者が蘇り、生者を襲い始める。ゾンビに嚙まれた者は、非常に高い確率でゾンビになる。ゾンビは俗称であり、公式には「変質暴動者」と呼ばれる。ゾンビになりかかると肌が青く変色し、動作が鈍くなって、しまいにはヒトとしての意識が喪われる。脳を破壊すればゾンビは死ぬ(という言い方も変だが)。つまり、いわゆる「ゾンビ映画」のお約束に徹底的に則っており、実際この小説の中では名作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に始まるジョージ・A・ロメロ監督の一連のシリーズをはじめ、たびたび「ゾンビ映画」への言及がなされる。一種の「メタ・ゾンビもの」と言ってもいいだろう。血腥い殺戮シーンや手に汗握るアクションシーンも次々と描かれる。ほとんどエンタメと呼べるリーダビリティとサービス精神が全編を貫いている。
が、何と言っても面白いのは、このような物語の登場人物の多くが、作家や作家予備軍や編集者や出版関係者、それも他ならぬ本誌のような「(純)文学」の世界に棲息するひとびとであることだ。つまりこれは「ゾンビ小説」であると同時に「文壇内幕小説」あるいは「文壇パロディ小説」なのである。筒井康隆の『大いなる助走』『巨船ベラス・レトラス』を彷彿とさせる部分もある。
十年前に新人賞を受賞し、その後しばらくは持て囃され順調に本も出せていたものの、最近はほとんど何も発表出来ていなかった作家K(本作中ただひとりアルファベット一文字で記されるこの人物は、当然のことながら「圭介」の頭文字を想起させる)は、文芸誌の穴埋め原稿として急ごしらえで書いたゾンビ絡みの作品が評判になり、急に再び売れっ子になる。Kと同時期のデビューだが十年間で三作しか小説を発表しておらず、もっぱら持ち前の美貌によって各種媒体に露出している桃咲カヲルこと海東理江は、読み手としての能力ゆえに理想が高く、なかなか小説が書けないのだが、そんな自分の存在のあり方に内心疑問を感じてもいる。Kの担当編集者である須賀は、文芸誌編集としての経験の浅さを自覚しながら、会社の利益に大きな貢献をすることがない、というよりも明確に赤字部門である自分の仕事にジレンマを感じている。文芸業界にもゾンビの影響は波及しており、ゾンビになりかけたまま仕事を続けている者もいれば、夏目漱石など文豪たちがゾンビとして蘇ってきたりもしている。長崎の実家住まいで、バイトをしながら小説家デビューを目指している南雲晶は、各種新人賞への応募も出版社への持ち込みも上手くいかず、いっそ自費出版で本を出そうかと考えている。長崎にもゾンビが出現し、彼は家族とともにゾンビが居ないと言われている北海道へと向かう。区の福祉事務所に勤務する新垣は、ケースワーカーとして多数の生保受給者を担当しながら、上司の指示で「変質暴動者特別警戒中」のたすきを掛けて外出していて、やがてゾンビを何人(何体)も処理する羽目になってゆく。全体は二部に分かれており、人物紹介と基本的な状況説明がなされる第一部、さまざまな謎が露わになり、物語が大きく展開する第二部と、ゾンビと文学をめぐる一風変わった群像劇として、見せ場満載のスケールの大きな作品となっている。
羽田圭介は何故、こんな小説を書いたのだろうか。結末まで読み進めれば、作者がこの荒唐無稽な作品にこめたメッセージは明らかとなる。キーワードは題名に含まれている単語「コンテクスト」である。屍者のコンテクスト、ゾンビの文脈とは、いったい何か? ここで言う「文脈」とは、まさに「ゾンビ映画」について提示されているような「お約束」のことであり、阿吽の呼吸の「阿吽」のことであり、空気を読むとか読まないとかの「空気」のことである。つまり、何であれ他人同士や集団=共同体においてコミュニケーションが成立する際の暗黙の前提となる諸条件が「文脈」である。この「文脈」なるものが、本作を通底する主題となっている。ありていに言ってしまえば、この物語の「ゾンビ」とは「文脈=コンテクスト」の隠喩なのだ。そしてこの隠喩は、とても大きな意味とかなり小さな意味の二重になっている。
大きい方は、むろん、現在の日本社会を覆っている息苦しく鬱陶しい「文脈依存性」である。同調圧力と言い換えてもいいだろう。ラストに至って著者の姿勢は明確に示される。だが、それと同時に、ここでははるかに小さな世界、すなわち「文学」や「文壇」における「ゾンビ化した文脈」の不毛さが徹底的に晒け出される。これはまったくもって絵空事などではない、と著者は言いたいのではないか。がしかし、これは「文学」「文壇」の存在意義に異を唱える、ただ単に正しいだけの批判とも違う。何故なら著者は、自分自身を実験体として、この紛れもない「ゾンビのコンテクスト」を体現しようとしているからだ。
そう、Kという頭文字の著者は、あのあと、自ら進んでゾンビに嚙まれてみせたのだ。彼はこう問いかけている。さて読者の皆さん、私はすでにゾンビになっていますか?