「珠玉の短編」とやらがあるという。あるらしい。実は評者もそんな噂を聞いたことがあり、もし実在するならぜひとも一読してみたいものだとつねづね思っているが、実物に出会ったためしがない。人々が面白がって大袈裟に言い立てる都市伝説のたぐいか。
それに似た幾つもの伝説に支えられて延命してきたのが「純文学」というやつで、この「純文学」自体もまた、有難みを帯びた神話として尊崇されるならまだしも、今やたんに胡乱な噂として楽しまれるだけの、平俗な都市伝説の一つになり果てたようだ。「純喫茶」だってとっくのとうに死語と化している。
本書の表題作の主人公は、文豪をおちょくったペンネームを持つ作家「夏耳漱子」。「スプラッタな描写に定評があ」り「いっきに不快指数を上げるやり方」を作風とする彼女は、兄妹が近親相姦、殺し合いの果てに恍惚として死んでゆくという筋書きの、「きょうだい血まみれ猫灰だらけ」を書き上げたが、担当編集者は雑誌の目次で、題名の横に「珠玉の短編――健気に身を寄せ合う兄と妹の運命やいかに」という謳い文句を付してのけた。「うわっ、気持悪!」。この僭越なお節介に対する苛立ち、煩悶、懊悩が、作品本文の抜粋と紹介をちりばめながら語られていった挙げ句の果て、「漱子」は最終的に、改作・改題による「きょうだい死だらけ猫愛だらけ」執筆を決意する。ところがそれが発表された雑誌の目次には、今度は「真心の掌篇」とあったという。
本書収載の十一篇に共通する主題とスタイルの本質が、この表題作にはまざまざと示されている。まず、十一篇のどれもが一種の恋愛譚の骨格を持つ。一種のという限定を添えたのは、それらがすべて、役割を交換し合いながらのSM遊戯だったり、被愛妄想に発するストーキングだったり、亡き恋人の遺骨へのフェティシズム的執着だったり、肉欲への過度の耽溺とそれへの反撥だったり、いじめのパワーゲームだったりで、世間一般の恋愛(などという観念自体も実は都市伝説の一つかもしれないが)からは逸脱した、いびつな恋愛の諸相だからである。
しかし、なまなましいディテールをちりばめて倒錯性愛を描くという行為自体には、倒錯はない。どんな背徳的なSM小説であろうと、「珠玉の短編」と化してしまう危険があるということだ。ところが山田詠美は「珠玉」にも「真心」にも耐えられない。SM行為自体はいっこうに気持ちが悪くないが(むしろ気持ちが良いだろう)、それをめぐる物語が「珠玉」という紋切り型の安全ネットで救われてしまうほど気持ちの悪いこともない。では、「珠玉」や「真心」の観念自体をぶち壊すにはどうしたらいい。えげつなさをどれほど誇張しようと、「はらはら」「きらきら」の余情(これは「珠玉」の一般属性)を排して「ばらばら」「ぬるぬる」の直接性をどれほどあくどく追求しようと、第三者が出しゃばってきて強引に「珠玉」のレッテルを貼られてしまいかねないことは、「夏耳漱子」の受難によってつとに示されている。
ではどうするか。物語自体から距離をとり、それを批評的に嘲弄しつつ語ること。これである。物語をおちょくりつつ、軽妙で滑らかな筆遣いによって、その物語自体を一瀉千里の勢いで見事に語りきってしまうこと。安易な評語かもしれないが、「戯作」という言葉が浮かばないわけにはいかない。鋭利な批評意識によってのみ可能となる戯れの作。SMや近親相姦のあさましさなど、どれほど誇張して描こうが今日何ほどのこともなく、「純喫茶」の「純」程度のカマトトぶりしかないが、山田詠美による物語と登場人物へのおちょくりようは時としてぞっとするほどあくどく、えげつない。このえげつなさの大らかな肯定がすばらしい。それを肯定しているものは、山田詠美のすべての作品に通底する、野放図に聡明な身体的知性にほかならない。『珠玉の短編』全十一篇は、きわめて知的な「戯作」の実践なのである。
しかし改めて考え直してみれば、「戯作」こそが文学の本質なのではあるまいか。川端も谷崎も、中上も古井も、あまたの短篇小説を書いているが、その中に、きらきら輝く無疵で完璧な球体のような作品など一つもない。彼らの傑作は、過剰や欠如をこれ見よがしに誇示する思い切りいびつな「戯作」ばかりである。『雪国』のような小説を今日、文学として救うには、それを「戯作」として読む以外にいかなる方途があるというのか。
「珠玉」の反対語が「戯作」であるとすれば、「真心」の反対語は「悪意」かもしれない。本書には恐ろしい悪意が漲っているが、それを直情としてあからさまに出すことの田舎者染みた鈍感と無神経に、山田詠美は耐えられない。真摯な直情として表出されたとたん、悪意もまた「真心」の一サブジャンルに堕してしまうからだ。あらゆる登場人物がアイロニカルな嘲笑の対象となっているが、そこでは悪意は「戯れの作」のビロードのような装いで滑らかに覆い尽くされ、時としてむしろ優しさの相貌を帯びてすらいる。えげつなさと繊細の共存という本書の不思議な倒錯は、この優しさに支えられて初めて可能となるものだ。
「珠玉の大敵は後味の悪さである」(「珠玉の短編」)と「夏耳漱子」は独り言つが、「珠玉」を脱構築しようという悪意が漲る本書の「戯作」群に、後味の悪さがまったくなく、むしろ爽快きわまる読後感が残るのも、この優しさのゆえであろう。どの作品にも「文学」への独善的な信仰がかけらもなく、饒舌と見えて実は一行の無駄もない言葉たちが、一瀉千里に流れくだっている。この疾走感を楽しみつつ、それに乗ってわたしも一気に本書を読み終え、その後味の良さを大いに楽しんだ。中でも、「珠玉の短編」「虫やしない」の二篇は傑作と思う。集中ただ一篇、掉尾に置かれた「100万回殺したいハニー、スウィート ダーリン」のみは、えげつなさも優しさも「真心」に接近しすぎていて、その擬態と誤解されかねず、やや弱いと感じたが、良すぎる後味に不平を鳴らすのも贅沢というものか。結局、わたしは珠玉の短篇集を読んだのかもしれない。