一読して、これは傑作だと思った。この作品を、声を奪われたすべての人に読んでほしい。
主人公は、在日コリアンの少女ジニ。物語はオレゴンの片田舎の、小さな、雨ばかりふる街からゆっくりと始まる。そしてジニは、五年前のある「事件」を思い出す。
当時、日本の小学校に通っていたジニは、朝鮮学校の中等部に進学する。そこは、これまで見たことのない世界だった。教室には金日成と金正日の肖像画が飾られ、授業は朝鮮語でおこなわれる。
いじめや「初恋」のようなものを体験しながら、なんとか朝鮮学校での暮らしをおくっていたジニだが、ある日、テポドンが発射される。
一挙に世界全体が、ジニに対して敵意と憎悪を向けてくる。ジニが満員電車でもみくちゃにされる描写は圧巻だ。人ごみに押されて電車を降り損ねたジニは、そのまま池袋まで行ってしまう。そして、パルコの地下のゲームセンターで、黒いスーツを着た日本人の中年男性三人から暴行を受ける。三週間ほどひきこもったあと、ジニは朝鮮学校にふたたび登校し、そしてそこで「ある行動」に出る。
朝鮮学校は、差別的な日本社会で、在日コリアンたちが戦後つくりあげてきた、民族の「エンクレイブ」(飛び地)だ。そこでは朝鮮語が話され、朝鮮風の制服が着られ、祖国は朝鮮であると教えられる。
こうした民族的な避難地を、良心的なマジョリティは、温かく見守ろうとする(全体社会で深刻な差別がある以上当然だ)。しかし作者の崔実は、そうした良心的なマジョリティに、ある事実を突きつける。その朝鮮学校のなかにさえ、欺瞞や抑圧があふれていることを。
私は社会学者という仕事柄、朝鮮学校がどのようにして人々の必死の努力で設置され維持されてきたかを知っている。しかし同時に、私の友人のある在日の女性が教えてくれたように、そこに深刻な抑圧やいじめが存在することも知っている。朝鮮学校が本当にどのような場所であるかは、マジョリティである私にとっては、重くてデリケートな問題で、ここで簡単に述べることはできない。朝鮮学校のなかのいじめや抑圧的な構造は、それが被差別者の人々にとって果たしてきた積極的な役割とともに考えられなければならないだろう。
そしてまた同時に、次のことにも気づく。いま他ならぬ私自身が書いたこの言葉のなかに、非常に教科書的な、よそよそしい、自分のものではない言葉が混じることに。いい面も悪い面もある。どちらも大事です。それはそうだ。しかしそういう綺麗事では、そこで排除されたものは、救われないだろう。
だが朝鮮学校内部の抑圧性を、マジョリティである私たちが言うことによって、私たちはそれを攻撃する差別者と共犯関係に陥ってしまう。だから私は、沈黙せざるをえない。そしてさらに、そういう沈黙こそが、この構造を再再生産してしまう……。
政治的なものにコミットしたとたん、私たちは私たちの言葉を奪われると同時に、言葉を発することを迫られる。そしてそれこそが、これほど多くの人々が政治に絶望しそれを嫌悪するとともに、そこに魅かれ何もかも投げうって没入していく理由なのだろう。
テポドンが発射された日、ジニは三人組の中年男性から暴行される。日本社会から決定的に排除されるジニ。しかし彼女には逃げ場はない。彼女がみた朝鮮学校は、日本社会の差別的構造からも、自分たちの祖国が抱える問題からも目をそらして、小手先だけの対処でなんとかやりすごそうとする人びとが集まる空間だった。やがて、そうしたこともまた、日常の一部になっていく。
そして、どこにも居場所のなかった崔実とジニは一緒に、もっとも政治的な場面で、つまり、もっとも私たちが自分たちの言葉を奪われる地点において、「自分自身」を取り戻そうとする。ここが物語のクライマックスである。しかし、ここで崔実とジニが叫んだ言葉に、私は驚愕した。
「北朝鮮は――」私は声を張った。「金政権のものではない。私たちは、人殺しの生徒ではない。肖像画は、ただちに排除する。北朝鮮の国旗を奪還せよ!」
もっとも重要なシーンでジニの口から出た言葉は、何十年も前に廃れたような、古臭い政治の言葉だった。日本社会のなかの差別にも、朝鮮学校の抑圧的な空気にも抵抗しようとしたジニが、自分を取り戻そうとした瞬間に選んだ言葉は、他者の言葉だったのだ。そして彼女は家族からも隔離され、「ある空間」へと追いやられていく。
ジニは二重に言葉を奪われている。いや、三重に。日本社会によって抵抗する声を奪われ、朝鮮学校でも排除され、そして自分自身の声さえも。
このよそよそしい言葉が最も重要な場面でジニの口から出たことを、作者が計算していたのか、それとも作者すらコントロールできなくなったジニが自ら喋ったのかはわからないが、それでもこのシーンでのこの言葉は、私には他の場面よりもはるかに強烈に印象に残った。そして、作者の意図さえ超越して暴走するのが文学であるなら、これはほんとうに、紛れもない文学作品だ。この言葉は、ジニの徹底的で根底的な、無慈悲なほどの居場所のなさをあらわしているのである。
こちらの声が決して届くことはないと知りながら、それでも私はジニに声をかけたくなる。ジニ、オレゴンの雨に癒されたら、いつかもういちど帰っておいで。この居場所のなさの真ん中へ。そして空を受け入れよう。