尻尾と心臓

伊井直行

1980円(税込)

「境界」を切り裂く言葉

富岡幸一郎

 会社は誰のために存在するのか、株主かそれとも従業員か。会社は国家に属するべきものなのか、ボーダレスにそれこそタックス・ヘイブンでも利用して国際競争に勝ち抜かなければならないのか。M&Aは当たり前の時代に企業倫理とは何か。二十世紀後半からのグローバル化によって、「会社」というものの価値とその存立基盤は激変した。際限なき金融グローバリズムによって資本主義自体が変容し、危機に瀕している。企業論や経営論、法的規制や組織改革がそこで無数の議論を呼び起こしている。ところが、そもそも「会社」とは何か、「会社員」とは如何なる存在なのかと問うことは、ほとんどなされてこなかった。何故なら、自明すぎるからである。しかし、伊井直行はそうではないという。

 二〇一二年に刊行された『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』で、作家は現代小説が高度経済成長期以降も正面から描こうとしてこなかった「会社や会社員」に着目する。《「普通のサラリーマン」とは、現代日本における凡庸な人生の代名詞である。少なくとも二十一世紀の始まりの時期まではそうだったはずだ。(中略)だが、そこに解くべき謎があることについて、私は強い確信を抱いている》

『尻尾と心臓』という奇妙な表題の本書は、まさにこの「謎」に正面から挑んだ野心的小説である。描かれる会社は、九州中部の食品関連の問屋・商社である「柿谷忠実堂」とその関東の子会社である「カキヤ」という会社である。子会社ではあるが「カキヤ」は独立性が高く、岩佐という辣腕社長のもと世間の好不況にかかわらず利益を上げ続け「柿谷忠実堂は尻尾を先に走っている」ともいわれる。主人公の乾紀実彦は、ここに新規事業の目玉となる新しい営業補助GPSシステム(「セルアシ」こと「セールス・アシスタンス・システム」)の開発のために親会社から転籍する。親会社でありながら「カキヤ」では敵とみなされている忠実堂から、落下傘のように舞いおりた乾は、周囲の反発と戦いながら画期的な新製品の開発を進めるが、その相方となるのは笹島彩夏という、外資系コンサルタントから転身したビジネス・ウーマンである。東京に実家のある乾は、九州に妻子を置いて単身赴任するが、老父母との生活にも、「カキヤ」の自分を無視し疎外しようとする空気にもなじめない。また「セルアシ」開発の同志ともいうべきやり手の彩夏にも微妙な対立感情を覚える。

 作品はこの出向者の乾の視点と、仕事一筋でキャリアを積んできた彩夏の視点から構成されているが、ふたりをビジネスを媒介として引きつけながら磁石のように反発させるのは、両者に共通する、会社員としてマージナルな時空に立つ感触の生々しさである。

 二つの異なった領域のあいだの相克。境界人としての不安と苛立ち。つまり乾にとっては、老舗の親会社と新ビジネスの子会社の敵対関係であり、流刑地と本社から揶揄される「カキヤ」の自由な空気への愛憎であり、九州に執着する妻子と東京の実家との心理的な距離であり、両親に愛された長男(大学を出てサラリーマンとなり一家の希望の星でありながら、八年前から「家出」し浮浪人となっている)と、平凡に働き続ける次男の自分との落差などである。

 また彩夏の方は、得意の英語力で外資系の大手IT企業に入り、上司に目をかけられコンサルタントとして成功し、その後自らの意志で日本の中小企業を選びながら、会社を外部から指導するコンサルの眼差しと、会社の内側にはりつく現役社員としての自分に分裂を感じている。そして優秀で熱心な会社員たらんとする彼女の心の底には、当時としてはめずらしい女性キャリアとして会社で働いていた母親の姿への、幼い自分の強烈な違和の残像があった。小学四年生の時に学校をサボって一人で「お母さんが働いている会社というところ」へ乗り込んで遭遇した会社員としての母。それは彼女にとっては「偽者のお母さん」のようであり、《そこにいるのが本物のお母さんだとわかっても、恐怖心が大きな魚のように心臓の周りを激しく泳ぎまわっていたのだ》。男女雇用機会均等法などの制度とは何の関係もなく、娘彩夏の「心臓」を貫いたのは、母親(女性)が会社員として「そこに」屹立している、ある生々しい姿である。

 作家が描き出すのは、組織のなかでの「会社員」の位置付けや生活ではなく(そのような小説は少なからずあった)、「自然人」(男であり女であり、父や母や家族の一員である)としての自分の領域と、「法人」というもう一人の自己の領域を行き来する、境界人としての相貌にほかならない。

『会社員とは何者か?』のなかで興味深かったのは、カフカの『変身』のグレーゴルを、「家庭に、会社員のまま――自然人ではなく法人として――目覚めてしまった」主人公として捉え直しているところである。「家庭では会社員――法人は異物であり、その異物性が『甲虫』として表現されている」との読みは刺激的である。企業の形態がいかに変化しても(日本型経営からグローバル企業へ)、その内部にいる「会社員」という存在こそは、法律や企業コンプライアンスによっては定義されるにもかかわらず、その本質的実存をひとたび問い尋ねれば、永遠に謎めいたものとして、世界内の異質なる者の光と影を帯び始める。それは「会社」自体も同じであり、「忠実堂」と「カキヤ」の親子会社は、各々集合する社員たちの個性によって変転と逆転を繰り返し、ウロボロスのように頭と尻尾がつながり喰らい合う。この作品では九州の田舎会社と東京の子会社の設定であり、親子会社の境界をGPSシステムを内在した新製品が侵入者として攪拌するが、このデモーニッシュともいえる連環は、今日の企業の世界的な規模の敵対的買収などに露骨であろう。

 本書は、作家の初期代表作『さして重要でない一日』以来の、日常の自明なるものを異化し、世界の実相を切り裂いてみせる先鋭な文学の方法論が、会社や社員たちの詳細な描写やアクチュアルな具体的設定によって深化させられ、実に読み応えある作品となっている。