と、彼女は言った

片岡義男

1870円(税込)

その融通無碍・あえて四文字熟語で

中島京子

 収録される七編の短編小説は、みな、どこか共通点を持っている。主人公は小説家だし、高校の同級生と何年振りかで会って食事をすることになるし、ちょっと不思議なしゃべり方をする女性が出てきたり、女たちがそろって魅力的な容姿をしていたりもする。

 ひょっとしたら、これらの短編はそれぞれ、書かれようとしている小説の、無限のヴァリエーションのサンプルであるのかもしれない。小説を書くのは、とにもかくにも設定を決めてストーリーを前に進めることなのだけれども、書いていれば、あるいは書くに至る前の段階では、この設定はやめようかなとか、違う人物でもいいかもとか、この男を女にしてしまえとか、そんなことはしょっちゅう考えているわけで、小説家の脳内で起こるそうしたヴァリエーションを、一つ一つ取り出してみせているようにも思えてくる。

 と、彼女は言った。

 女が出てくる小説である限り、どこに置かれてもおかしくない文章がタイトルになっている理由も、それゆえなのかもしれない。表題作「と、彼女は言った」の中では、小説家が、とある店にいる女性を、とある理由から「裕子」と呼ぶのだが、そう呼ばれる女たちはそれぞれ別の名前を持っていて、自分は悦子だとか美和子だとか、いちおう主張はするのである。最後はこんな会話で終わる。

  「店にはまた来て」
   と彼女は言った。
  「美和子だよな」
  「なんでもいいから」

 最初の一編「おでんの卵を半分こ」の中では、主人公の小説家が『ゼン・イズ・ホエン』というジャズのタイトルに言及して、

「三つだけの単語で出来てるのに、その三つのならびかたに、なにか意味があるような、ないような」

 と述べるのだが、片岡義男の小説を読んでいると、いくつかのシンプルな要素だけでできていて、その並び方に、なにか意味があるような、ないような、気がしてくる。やはり、この短編の中に、

「ストーリーとは、人と人との関係と、その推移だから」

 というセリフも出てくる。推移、について話しながら、小説家は女友達の腕時計を、

「よく似合う」

 と褒める。

 推移というのは、一つは時間のことだ。時間はいついかなるときもとどまらない。もう一つ、推移といえば、具体的な、場所の移動を指すだろう。

 だから、これらの短編の中で、時計はいつも印象的に登場するし、もう一つ重要なのは、登場人物たちが飲んだり食べたりする場所であり、その移動手段として使われる乗り物にも多くの記述が割かれる。片岡義男と乗り物といえば、どうしたってオートバイを期待するし、実際、オートバイが鮮烈に登場する短編もある。しかし、「バスの座席へのセレナーデ」におけるこんな文章も忘れ難い。

 走っていくバスと、そのバスの座席に体を預けている自分の関係が作り出す感覚に、これに関しては記憶がある、と彼は思った。(略)この記憶は想像にもとづいている、と考えなおした。旅先の北原玲美から自宅に電話があったとき、その電話でのやりとりを終えてから、伊達は旅先にひとりいる玲美がバスとともに体験するひとつの場面を、想像した。そのとき、その想像が最後に落ち着いたのは、走るバスの座席をとおして彼女が受けとめる感覚だった。

 移動手段に注目するならば、「ユー・アンド・ミー・ソング」は、瀬戸内海の島に住む画家を訪ねていく男性が登場し、フェリーには乗るのだが、港に上がってからは、自分の足だけを移動手段にして、画家の説明通りにひたすら歩く話だ。ことに、画家の家を出て、紹介された「きみが使うことになっている家」に向かって、夜の闇の中をただただ歩く場面は、どこを行くと何にぶつかるから右または左に曲がってまっすぐ行く、といった文章が延々続くのに、たいへんスリリングである。

 もちろん、ストーリーにとっていちばん重要なのは、「人と人との関係と」「その推移」なんだから、人物の関係性がどう変移するのかはもちろん注目ポイントなのだけれども、人が出会って飲み食いする場面が中心の、ゆるゆる進む短編の中では、劇的な変化がもたらされるというよりも、時や、場所が、関係の推移を伝えてくる。

「だから靴は銀色だった」の中では、小説家と友人はこんな会話を交わす。

  「小説は技術なんだよ」
   稲葉が言った。
  「お前に言われるまでもない」
   と答えた森崎は、
  「ただし俺は、具体的な技術には挫折した」
   と、つけ加えた。
  「具体的な技術とは?」
  「いろんな道具を巧みに使って目的を達すること。あらかじめ理解はするけれど、実行がうまくいかない。だから道具を使わないですむ技術を探して、小説へ来た」

 片岡義男の小説は、あきらかに技術で出来ているのだが、「いろんな道具」が「巧みに使」われて「目的を達する」ようには出来ていないのだ。片岡義男の小説を読むと、その融通無碍なところに脱帽する(小説内に、「人に関して四文字熟語を使うな。作家ともあろう男が」というセリフがあるのだが)。

 音楽と、おいしい食べ物と、男と女を、乗り物と時計とが、あっちやこっちに移動させる。それだけのことなのに、ずっと読んでいたくなる。だって、それが小説なんじゃないの、という声がどこかから聞こえて、肩から余計な力が去っていく。

 人物に関しては、「どこから来て、どこへ」に出てくる正ちゃんという酔っぱらいのおじさんがとても魅力的だ。それから、「人生は野菜スープ」の最後に登場する独身女二人は良い。日本文学に登場する独身女性で、こんなふうに素敵なのは、めったにいない。彼女たちの会話は、独身だったり、かつては独身だったりした女たちの胸に、自分の言葉のように響いて、留まる。書いたのが七十代の男性作家であることには、改めて瞠目せざるを得ない。