本書は、編訳者あとがきによると「そのときどきで網にかかったものの中からこれぞというのがあったら持ってくる〈行商のお婆さん方式〉」で編まれた短編小説アンソロジーである。収録作に共通するテーマは特にないとのことで、書き手の老若もさまざま、奇想や幻想と呼ばれそうな作品もそうでないものもある。のだけれども、本書に収められた十作家の十一短編には文体の個性や手法やアイデアの衝撃度などといった各作品の違いを越えて、何か共通するものがあるような気がした。一人の作家の短編集だと言われたら信じてしまいそうな、面白さだとか翻訳の巧みさだけではない何か、それは多分リアリティというものの強さではないか。
作者お手製の架空の作品世界を成立させるためのリアリティではない。作品を読んで、これは今ここ、私が立っているこの場所この現実、と一続きの世界そこで起こっていることを描いているのだと読者に思わせるような意味でのリアリティだ。
冒頭の一編、都会で暮らす若い女性が、もうすぐイラクへ出征する兄や母のもとで感謝祭を過ごすため帰省するという筋立ての「ノース・オブ」から、そのリアリティは強烈に迫ってくる。彼女が五年ぶりの実家に連れ帰ったのはあのボブ・ディラン(!)である。街に溢れ翻る無数の星条旗などどこ吹く風のディランの振る舞い、その彼の歌手あるいは人間としての個性を知ろうと知るまいと伝わってくる存在感が、兄妹の間に横たわる溝とそれでも互いを思い合う切なさを鮮烈に表出させるための鍵となっている。癌になった妹に会うためメキシコへ急ぐ姉が語り手の「火事」では、彼女の頭に妹との数々の思い出が、決して年表的な羅列ではない歪な、それなのに研ぎ澄まされた形で去来する。その濃密な研磨の過程で飛び散った火の粉が、小説自体を燃え上がらせているかのようだ。続く「ロイ・スパイヴィ」では謎と魅力に満ちたハリウッド俳優と偶然機内で隣り合わせ意気投合した女性の、得たかったもの、得たもの失ったもの残ったものが、彼らの会話と所作の繊細な描写、絶妙の小道具によって描かれ、舌に生々しい甘さ苦さ塩辛さを残す。ある一家に起こった悲劇が、その強い象徴となるアイコンを得て善意の民衆を巻きこむ濁流のような社会的悲劇へと加速していく「赤いリボン」は、その内容からこれまで人類が積み重ねてきた巨大な悲劇を想起させるのだが、そういう知識として知っている悲劇からは洗い流されているような声、途切れ途切れの嗚咽が挿入されていることにより、巨視的な視点からでは見過ごされがちな当事者の行き場のない小さくて大きな感情にも読む者の目を向けさせ、逸らすことを許さない。「アリの巣」「亡骸スモーカー」はどちらも一見アイデアの奇抜さが前面に出ているように見えるのだが、主人公の女性たちがそれぞれ求めるものへの思いがコミカルでありながらも丁寧な手つきで描かれ、結果とても普遍的なものになっていることこそが、アイデアのインパクトよりもむしろ作品の肝になっている。夫婦喧嘩の最中に子供達が姿を消し、驚くべき姿となって発見される「家族」、子供達から突きつけられた隔たりの中でも、家族としてあることの条件を手放せない、変える変わる気のない両親は純粋なのか滑稽なのか。彼らに用意された結末はおぞましく、でも決して意外ではないことがさらに恐ろしい。表題作「楽しい夜」は、三人の女性のお喋りで始まる。お酒を飲みながらの話題は男たちとの馴れ初め、別れ、新たに気になるキュートな男子……視点人物がくるくる変わり、展開自体がダンスのように軽快、まさに楽しい夜……と間もなく不穏の明かりが灯り一閃し視点のダンスは意外な人物に引き継がれ照明が落とされる。世界の色は決して一様ではないということを思い知らされる。神話が普遍的な人事の鏡であるならば、「テオ」は神話と人間の話のあわいを行くような作品だ。巨人たちが繰り広げる、きっと我々もいつか体験したことのあるボーイ・ミーツ・ガールの物語は、しかし人間のそれよりも少しだけ崇高で、その少しだけ分の差に不思議な説得力がある。忍び寄るように追ってくる過去に突然肩を摑まれてしまうのが、ある同性愛カップルの間で渡されたプレゼントをめぐる「三角形」。現在では認められている価値観や人のあり方にも、拭い去れない暗い過去がある。そんな過去との間に断絶はないのに、我々はつい目を向けるのを忘れ、過去があったことさえも忘れてしまっている。そして最後を飾る「安全航海」では、突然無数の”祖母たち”だけが乗員の巨大な船が航海を始める。彼女らは、どうも自分が死んだか今死につつあるかしているらしいということを感じながらも世間話をし船内を探索しクイズを出し合って過ごす。広く暗く明るく生命に満ちた海という場所、人生の重みを経た彼女たちの会話や行動の一つ一つがイメージ豊かに織り上げられ、誰の身にも降りかかるがそれがどんなものなのか誰も語ることができない、それゆえにあり得るとかあり得ないとか言うことすら実はできない死へと近づいていく感覚を、ひしひしと、絵空事でないものとして体感させてくれる。
本書に収められたどの作品も、今ここと隔たっているかのようで隔たっていない、今ここと一つながりの場所で起こっていることを描いている。そして我々がこうだと思いこんでいる世界の枠では捉えられないもの・こと・時の流れ……が存在することを認識させてくれる。その枠を押し広げることを促してくれる。本書において、奇想幻想を含む現実ではあり得ないような事物は、現実の隠された部分を照射するために作られ用いられているのではない。書かれていることそのものが現実でありそれらをひっくるめたすべてが世界なのだ。だから、本書は妙なるリアリズム小説集なのである。