デビュー小説論 新時代を創った作家たち

清水良典

1980円(税込)

一番はじめの小説

高原 到

 村上龍、村上春樹、高橋源一郎、笙野頼子、山田詠美、多和田葉子、川上弘美、町田康。本書で論じられる八人の作家は、著者のいうごとく「現代文学を代表する大作家」たちだ。というよりむしろ、まさに彼らの登場によって「私たちがいま現代文学と呼んでいるもの」が切り拓かれたのだ。ならば、彼らのデビュー作を徹底的に読みこむことで、そのブレイクスルーの意義を「現代文学」を照らしだす新たな光源にすることができるのではないか。著者のねらいはここにある。

 デビュー作とは、その作家のすべてが詰めこまれた「奇妙な仕事」なのだ。――よくいわれるこのクリシェは、しかし、いささかいかがわしい。文学史から消えた作家のデビューに関心をもつ者はいない。つまりここには、すでに名をなした者が長年かけて到達した表現世界のひろがりを、胚珠になぞらえられたデビュー作に凝縮して読みこむという、後出しジャンケンのうろんさが臭うのだ。

 だが著者の行論は、そうしたうろんさに馴れあわず、正攻法で着実にすすんでゆく。どんな傑作も、時代にたいする親和/異和の磁場からしか生まれえず、どれほど偉大な作家も、先行する表現者の影を踏むことからしかはじめられない。そこでまずは、前世紀末を彩ったもろもろの事件、ロックの唐突な死、革命闘争の無惨な末路、「an・an」・「POPEYE」とそのネガたる根暗・ひきこもり、国籍や人種や性別を越境する恋愛、バブルの狂騒とたちまちの崩壊、電脳空間の生成とその遍在化が、かろやかな嬉遊曲【ディヴェルティメント】のごとく奏でられる。そのBGMにあわせ、おのおのの作家の八色の光源が、あざやかなビームを交錯させてゆく。ジム・モリソンの即興詩。ヴォネガットの断章。谷川雁の失語。バルザックの『知られざる傑作』。ボールドウィンの絶叫。ヨネ・ノグチのバイリンガル詩。エッジの立ったSF小説。三笑亭可楽の語り。……しつらえられた視座の明晰さと文学的嗅覚の鋭さに、私たちは何度もうなずきつつ、ここちよくページをめくってゆくことができる。

 だが安心してはいけない。一見オーソドックスな論立てをつらぬいているのは、むしろポレミックな大胆さなのだ。例をあげよう。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、よく知られているように、江藤淳によって全否定といってよいほど厳しく批判された。アメリカの占領と検閲がむしばんだ戦後の言説空間の虚妄を告発しつづけた批評家にとり、このベストセラーは、米軍基地のまわりに蠅のごとく蝟集し、クスリやロックやセックスのもたらす陶酔を米兵たちにめぐんでもらう日本人【ジャップ】の姿を描いた耐え難いものだった。しかし著者の読解は、それとは大きく異なっている。村上龍は「アメリカの占領状態にある限り、この国で口にされるどんな立派な言葉もヒロイックな行動も『大きな噓』に支えられている」ことを自覚した作家であり、彼のデビュー小説の真芯には、アメリカへの無気力な屈従どころか、偽装された平和を永遠の戦争状態と感受する特異な資質がひそんでいる。つまり、江藤淳と村上龍は、対立するどころか、同じ敵にたちむかう戦友なのだった。

 こうした転覆は本書の至るところにしかけられている。アメリカナイズされた文体で注目された『風の歌を聴け』の原点には、「京都の坊主の息子」であり「国語の教師」であった父の、「日本語的なものの呪縛」にたいする深い屈折があった。ならばこの世界的作家は、日本語なるものの「最後の息子」になるわけか。『さようなら、ギャングたち』の源一郎的個性は、「詩」「死」「私」の空虚な三角形の内部に印字される、優雅で感傷的なアクチュアリティにほかならない。『ベッドタイムアイズ』のキムとスプーンとマリアは、「隣接する国家間が同盟を結んだり対立したり、侵略から占領へ、さらに独立に到ったりする、まさに国際政治での国家間とたがわぬ関係」をとりむすぶ。笙野頼子のとことん暗い『極楽』こそ、バブリーな八〇年代の象徴だ。――既存の読解格子を小気味よくひっくりかえしてゆく挑発性は、「破壊=創造」の営みによって現代文学の沃野を開拓した作家たちの第一作と四つに組み合う『デビュー小説論』の面目躍如たるところだろう。

 あらためて本書に教えられたことがある。七〇年代から九〇年代にかけてデビューした才能豊かな作家たちの創造した、これほどまでに多様な表現世界に、どれほど深くアメリカの影がインストールされていることか。『限りなく透明に近いブルー』や『風の歌を聴け』や『ベッドタイムアイズ』だけではない。多和田葉子がドイツで失くした「かかと」は、別のエトランゼがすでに百年前にアメリカで失くしていた「かかと」だったのだ。胸をせつなくしめつける川上弘美の物語世界の木蔭には、アメリカの小学校で浴びせられた「monkey」という嘲りを、自らもくりかえすほかない無力な少女がかくれていたのだ。――本書でとりあげられた作家たちをくくる便利な符牒に「中上健次以降」というものがあるが、たしかに中上の文壇デビュー作『一番はじめの出来事』は、自然主義と私小説という近代日本文学の本線をまともにうけとめて書かれた作品であり、戦後まもない時代を描いていながら、そこに「アメリカの夜」を感じることはない。

 くりかえそう。どんな傑作も、時代にたいする親和/異和の磁場からしか生まれえず、どれほど偉大な作家も、先行する表現者の影を踏むことからしかはじめられない。であれば『デビュー小説論』の宛先はあきらかだろう。未聞の火花を散らすデビュー作、おのれの読解力の限界をためさんとする「先導獣の話」を、著者をはじめ、同時代の読者はみな畏怖しつつ待ちわびている。現代という時代の栄光と悲惨に、かたく握りしめた一点の炎で立ちむかい、新時代を創るデビュー作を書きあげてやる。そう夢想する若わかしい野心にたいする真摯な呼びかけとして、本書はここにある。