本谷有希子の新作小説集です。表題作の中編「異類婚姻譚」は、2015年下半期の芥川賞を受賞しました。この作品を中心に、4編の小説からなっています。
本谷有希子の小説には、人間という概念をめぐって強烈なアンビヴァレンスが働いています。一方では、人間を極端な自意識に苛まれる存在と見て、その混迷や受難、右往左往のありさまを、細やかで執拗なモノローグ的文体で追いつめていきます。比較的初期の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『ぬるい毒』に、そうした本谷有希子の人間理解の好例を見ることができます。そのハードドライヴィングな筆力こそ、彼女の本領ということができるかもしれません。
しかし他方で、彼女は、人間の心の奥を掘りすすむ求心的な資質とはまったく対照的に、人間の内面への関心を放擲し、人間をモノのように無責任に突きはなして対象化する、遠心的ともいうべき指向を備えています。そのとき、彼女の文体もみごとに変化し、どこか投げやりで、ニヒルで、不敵なユーモアをたたえつつ、自由に世界を滑空する趣きを身にまとうのです。
掌編集と呼べる『嵐のピクニック』において、本谷有希子の、人間の外へ向かう遠心的アイディアと文体のスリルをたっぷり味わうことができます。その名も「人間袋とじ」は、人間が足の先からぺろりと二つにはがせるモノになるというお話で、島尾敏雄かつげ義春のような世界が描かれています。「亡霊病」では、この病にかかった人間は口から外へエクトプラズムを吐きだしながら消えてしまいますし、「マゴッチギャオの夜、いつも通り」の主人公はもはや人間ではなく、猿なのです。そこでは、じたばたする人間とは違って、淡々と世界の不条理を受けいれる猿の潔さが留保なく肯定されています。
本作『異類婚姻譚』は、『嵐のピクニック』でのいくつかの試みを一種の助走として、本谷有希子の遠心的資質が十全に開花した傑作です。
表題作「異類婚姻譚」は、「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた」という主人公・サンちゃんの言葉で始まります。夫婦が長く一緒に暮らしていると顔つきが似てくる、というような微笑ましい話ではなく、人間の個性の発現であるはずの顔が、ほかの人間、いや、ほかのモノとの区別さえどうでもいいような、いい加減なものに変化していくという恐ろしい物語なのです。
もっと恐ろしいのは、そのような人間のモノ化には、動物的、というよりも植物的といいたくなるような受動的快楽が付随していることです。サンちゃんはずるずると旦那の自堕落きわまる生態に同化していきます。
「なんだか自分と旦那の体が絡まり合っているような、へばりついてしまっているような、妙な気分だった」
サンちゃんは旦那が一回食べて吐きだした果物をにこにこしながら食べたり、旦那の痰を自分のもののように感じたりするのです。
サンちゃんは、旦那の自堕落さの原因が彼の前妻の誘惑などではなく、「人間らしい生活など維持し続ける必要はない、やめてしまえ、という声なのではないか」と気づくのですが、時すでに遅く、彼女は旦那の植物を思わせる生態系に取りこまれています。
「男たちは皆、土に染み込んだ養分のように、私[サンちゃん]の根を通して、深いところに入り込んできた。[…]私と付き合う男たちは皆、進んで私の土になりたがった」
本作中の印象的なエピソードに、サンちゃんが知人に頼まれて一緒に猫を山に捨てに行くというものがありますが、そのときの外景の描写は、サンちゃんの人間としての内面が溶解していく感覚のメタファーだといえるでしょう。
「一歩進むたびにスニーカーの底が柔らかい土に沈んだ。奥へ行くほどにどんどん酸素が濃くなるように感じられる。木々が、土が、土に還ろうとしているものが、呼吸しているのが分かった」
そして、知人の夫から、「あなたは[以前は]もう少し、ちゃんと人の形をしてたかなあ」と評されるに至るのです。
サンちゃんと旦那が迎える驚きの結末を明かすのは控えておきますが、そこには、泉鏡花や稲垣足穂や深沢七郎や山田風太郎に接近する強度で、しかし、まったく別のかたちをとって、日本文学におけるアンチヒューマニズムの血脈が露呈しています。この中編は、人でなしの精神の系譜に連なる作品なのです。
「異類婚姻譚」に続く短編「〈犬たち〉」を見れば、本谷有希子の人でなしへの希求はいっそう明確になります。冒頭にはこんな一節が書かれているからです。
「犬たちの中に埋め込まれていくような恍惚とした気分を味わいながら、窓の外を眺めてうとうとと眠りに落ちるのが、私は好きだった」
犬たちと同化する動物的な快楽、「埋め込まれていく」という植物的な受動性。それら人でなしの魅惑と恐怖が、この雪の結晶のように美しい短編のほとんど唯一の主題です。そのことは鮮烈なラストの一行にはっきりと打ちだされています。
また、集中の最後に置かれた「藁の夫」は、「異類婚姻譚」と対をなす短編で、文字どおり、藁でできた人がたの存在と結婚した女の話です。いま「人でなしの魅惑と恐怖」といいましたが、人でなしであることにはとろけるような魅惑と同時に、凍りつくような恐怖がひそんでいるわけで、「異類婚姻譚」のサンちゃんも、「藁の夫」のヒロイン・トモ子も、人でなしの夫に惹かれつつ、夫を消しさってしまいたいという凶暴な殺意に見舞われます。
この魅惑と恐怖のアンビヴァレンスの秤が完全に後者に傾いた世界を描いているのが、3番目の短編「トモ子のバウムクーヘン」です。ヒロインの名前が同じなので、この悪夢のような物語は、じつは「藁の夫」のトモ子の後日談で、彼女のたどる運命を、「藁の夫」に先立ってフラッシュフォワードで表しているようにも思われます。その不気味さがまた格別の味わいなのです。