読み終えたあとずっと、微熱が出たような気分でいる。読み終えたあと、外は灰色に曇った風の強い日であってほしいと思うような作品だ。そこに雲の切れ目から陽がさしてくれればいい。だれでも自分が知る空、海、浜、町しか思い浮かべることはできないのだから、その風景は小説がしめすものとはずいぶん違う、ずれた印象にしかならないかもしれない。けれども手応えはそのようにして初めてうけとることができる。「かたい冷気と、濃淡のある灰色。低くだだっぴろい空は、いつまでも見飽きない。厚い雲にいろんな絵を浮かべていると、きゅうに雲が裂けて光がさす。まっさおな裂けめに、西陽がまざる。子どものころは、天国が見えたといっていた。」この小説は映画的で、それも北欧、たとえばフィンランドやデンマークの作品を思わせる。物語も主題もはっきりしていて、舞台はこの上なく明確だ。このあざやかさが、映画でいえばシネマトグラフィにあたる文体の繊細により、ほどよくぼかされている。それで、熱にも言葉の量にも欠けているわけではないのに、作品がしずかになる。
石田千に最初に興味をもったのは、のちに彼女の最初の本に収められる短い文章を新聞の片隅で読んだときだから、ずいぶん前のことだ。一人称の代名詞を使わない文体に惹かれた。その原則はその後も彼女の中でつづき、今ではいっそうの洗練を加えているのかもしれない。その文体が小説を綴るとき、物語のナレーションと主人公の内面の発話が一体化し、でも主人公を第三者として扱うまなざしの距離は崩れず、それがたとえば撮影にはつきものの冷静さというか冷却の役目をはたすのかもしれない。主人公の名前も、どんな人間関係の中にいるのかも、一度には明かされず、移動する彼を追うカメラワークと周囲の人々との会話にしたがって徐々に明らかになってゆく。そんなところも映画的だと思わせる理由だろう。そこには字義どおりの意味でのサスペンス、つまり宙吊りの感覚がある。知識の到来は中断され、なかなかやってこない。それから次の日が来て、次の場面が来て、また何かが少しわかってくる。
人々がどんな配置を生きているのか、どんな出来事があるのか、どんな結末を迎えるのか、そうしたことについてはこの書評という場では、できれば語らずにおきたい。たとえば人間関係は、たしかに普通ではないが、現実味がないものではない。むしろその反対だ。新潟の本土と島(おそらく粟島)に別れて暮らす、一種の拡大家族の構成は特異だが、そのあり方はまるごと信じられるものだし、それがシンの人生の枠組で、私たち読者としてはシンの名を知り彼が新太郎であることを知り姓が池田であることを知るよりも先に、その家族のかたちをほのめかされている。島に住む「倫さん」がいて、本土に住む「じいさん」(面とむかって呼ぶときはじいちゃん)がいて、ふたりともが新太郎の母親の「ないえんのおっと」(新旧の)だということも、特に急ぐこともなく時がくればわかるようになっている。でも倫さんとじいさんも普通につきあっているし、倫さんが島から来るときには母親のりっちゃんと新太郎と四人でこたつを囲んで食事をすることもある。急がない語りそのものが、日常的な人と人との気遣いのような速度と距離感をもっていることも、だんだんわかってくる。
そして物語の主人公は新太郎で、この作品はこのうえなく正統的な芸術家小説の、傑作だ。新太郎がとりくむジャンルは彫刻、木彫。幼児期に喘息に苦しみながら育った小柄な少年が、熱狂のうちに摑みとったのがその道。きっかけは小学校三年のとき、異母弟の光太郎とともに参加した、島の神社の神楽踊りだった。その間然するところのない、みごとな一節を引く。
「暗い面の穴から見るものは、すべて大昔みたいになる。家族も、景色も、ずっとまえにそこにいた原始人かだれか。そしてだんだん、自分が人間ではないものになってきて、からだのあちこちに目玉が増えてくる。さらに、そのようすをどこかべつなところから、もう一対の、いちばん大きな自分の目が見ている。どの目も、くまなく見わたせる。その不思議な視界で、からだがとても楽に伸びるようになる。いつも光太郎と遊んでいる神社は、夜空たかく松明が焚かれ、神々の庭となった。太鼓が、背骨の芯に降ってくる。借り物のようにふわふわと軽いからだを操り、手足をふりあげて舞った。ほんものの鬼に、のりうつられていた。」
これで、面を作ることに興味を覚えた。面を彫ることが神聖なことになり「だれにも見られないように彫ることが大事だった」。中高の美術部から、「岸川先生」の弟子になるために東京の美大に進み、今は大学院の二年目だ。人生の岐路にさしかかっていることはまちがいない。今は留学を考えている。シュテファン・バルケンホールが教えるドイツの国立カールスルーエ造形大学に、文化庁の給付金をもらって行きたいと思っている。
するとただちにバルケンホールの、あの異様な存在感がある人物像を、われわれも思い出すだろう。そして今の今までは海岸に転がる丸太のような抽象作品しか作れずにいた新太郎が、ここでは種明かしすることのできないカタストロフィにより、ひといきに別の段階へと飛躍をとげるのが、この小説のクライマックスだ。ひとりの人の心身とはその人生のすべての表現であると彼が考えてきたことも、さまざまな怒りもさびしさも、治療院でのバイトの経験も、倫さんから遺伝的に受け継いだからだも、じいさんに教わった刃物の研ぎ方も、すべてがそこに収斂する。
ある場面で倫さんがとぎれとぎれの声で歌うボブ・ディランの「北国の少女」が、新太郎が母の人生を思うときの手がかりになる。この小説を読み終えたら、ぜひ聴き直してみてください。悲しい美しさに打たれます。ディラン本人だけでなく、ピート・タウンゼントによる弾き語りヴァージョンも絶品。