わたしの木下杢太郎

岩阪恵子

1980円(税込)

低いけれどよく通る声

関川夏央

 温泉と海の町、伊東を流れる松川沿いの遊歩道には、木下杢太郎の業績をしるした案内のほか、彼の戯曲『和泉屋染物店』『南蛮寺門前』など大正初年刊の単行本の表紙を焼き付けた陶板が掲げられている。もっとも有名な伊東人ということだ。

 伊東は伊豆半島東海岸の中心として早くからひらけた。しかし絶壁つづきの地形の間に生じた狭小な平地で、道路も鉄道も到達が遅れた。国府津から御殿場まわりだった東海道線が、丹那トンネル完成で三島と直接結んだのは一九三四(昭和九)年、熱海からの伊東線が開通したのは三八年である。それまで、東京往還は霊岸島行きの船が頼りで、あたらしいものはみな海からきた。

 木下杢太郎(本名太田正雄)は、天保年間に開店した「米惣」という老舗雑貨店の息子で、一八八五年に生まれた。病身の実母にかわって、二十一歳年長の長姉と店を継いだその夫に育てられた。一九〇七(明治四十)年建造、なまこ壁の落着いた構えの店は、いま杢太郎記念館となっている。

 次姉と三姉は、東京に出て巌本善治の明治女学校に学んだ。また三姉たけは、クリスチャンでありながら小石川安藤坂、中島歌子の歌塾萩の舎で一葉樋口夏子と同窓だった。一葉がたけとともに撮った、髪を長くおろした写真が残っているが、それは彼女がなりたかった「女学生」への憧れをしめす。姉たちは休暇で帰省すると、実家からわずか一町先の海岸で幼い杢太郎に外国語の歌を歌って聞かせ、杢太郎の原風景をつくった。

 十三歳で上京、独逸学協会中学校で普通学とドイツ語を学んだ。太田家は杢太郎を医師にするつもりだったのである。第一高等学校第三部、東京帝大医科大学と進んだ杢太郎だが、与謝野鉄幹の「明星」同人に加わり、〇七年夏、鉄幹、北原白秋、平野万里、吉井勇と五人で、のちに共著紀行文『五足の靴』となる九州旅行に出た。当初は遊山に過ぎなかった旅を南蛮文化見学の旅にかえたのは、杢太郎の周到な事前調査であった。旅先では杢太郎と最年長の鉄幹が始終先頭に立って、遅れがちな三人を待ち受けた。白秋はこの旅で第一詩集『邪宗門』を発想した。

 苦労の旅を鉄幹とともにたのしんだ青年たちだが、翌〇八年初めには新詩社を脱して森鷗外が主宰する「スバル」の創刊に参加した。そうして杢太郎は鷗外、石川啄木と知りあった。

 杢太郎はその同じ年、自らが命名した芸術家の集い「パン(牧羊神)の会」を起こした。「若い東京に江戸の風」と白秋作詞の会歌にあるように、それは欧州文化への憧れと古い日本への愛着を調和させつつ東京に「サロン」を根付かせたい、という明治末芸術青年の心の動きの反映であった。

 啄木は杢太郎の印象を日記に書いた。

「此、矛盾に満ちた、常に放たれむとして放たれかねてゐる人の、深い煩悶と苦痛と不安とは、予をして深い興味を覚えしめた」「大きくなくて、偉い人――若しかういふ人間がありうるとすれば、それは太田君の如きも其一人であらう」

 杢太郎の「煩悶」「苦痛」「不安」とは、自ら選んだわけではない医者の道をこのまま歩むべきか、いっそ文芸・絵画の道を進むかという迷いであった。若い杢太郎が鷗外の口から聞きたかったのは「万事を捨てゝ文芸の事に従へといふ言葉」であったが、鷗外はついにそういってはくれなかった。

 やがて杢太郎は鷗外が示唆した皮膚科学に進み、精進して世界的な業績を上げた。そうして昼は研究者太田正雄として、夜は翻訳家、植物写生家として玄人以上の実力をしめしながら「両頭の蛇」のごとく生きた。しかし一九四五年十月、終戦二ヵ月後、六十歳で胃がんで死ぬまで「煩悶」は晴れなかったのである。

 杢太郎が残したのは、戦争末期の二年間、路傍に咲いた可憐な植物を写生して日録のような短文を付し、のちに『百花譜』として刊行される八百七十二枚の精密な図譜であった。それは「両頭の蛇」が心の「苦痛」をやわらげ、「不安」を解消するために行った作業の、美しい成果であった│

 岩阪恵子さんは、画家・小出楢重、詩人・作家の木山捷平につづく生涯三冊目の評伝に、木下杢太郎を選ばれた。

 小出楢重は岩阪さんが、長い東京暮らしのうちに忘れていた故郷・大阪の感触を思い出させ、再発見させた。詩人から出発した木山捷平はやがて小説家に転じたが、終生ユーモアと詩を手放さなかった。そのことが、小説家となって自然に詩と距離をおいた岩阪さんを刺激した。

 では木下杢太郎はどうであったか。

 医学と芸術という、それぞれ別の方角を向いている「二つの頭」に、二つながら「誠実であろうとした彼は常に引き裂かれた状態にあったのではないか」と岩阪さんはいわれる。「葛藤を背負いつづけ、引き裂かれつづけた人であったからこそ、杢太郎はわたしを引きつけてやまない」

 彼の作品(書きものと写生)に、人が「しばしば感じる寂寥、悲哀、諦念は、このような彼の生き方から生まれたものだ。我慢づよくあった人だからこそよけいに我慢の裏に隠されてきたものが深い影となって落ちている。その影の濃さがまたなんらかの影をひいて生きる人々を魅するのであろう」。

 岩阪恵子の声は小さくて低い。しかるに発語された言葉はすべて粒立っていて、明瞭に聞き取れる。さわやかではあるものの、やはり影を背負って生きるこの書き手は、七十年前、すなわち自分の生まれる一年前に世を辞した文学者・医学者・生活者が背負った影の濃さに刺激されて、その昼の仕事と夜の仕事を差別しないすぐれた評伝を書いた。太田正雄としても木下杢太郎としても、もって瞑すべし、であろう。