十七八より

乗代雄介

1650円(税込)

愛しいけれど気に入らない家畜

三浦雅士

 素朴というべきか、企みに満ちているというべきか、冒頭に作品意図が十二分に示されている。「過去を振り返る時、自分のことを『あの少女』と呼ぶことになる。叔母はそういう予言を与えた」というのが書き出し。叔母が癌で死ぬ間際の、それが叔母と姪の二人しか知らない遺言だったというのである。自分のことを「あの少女」と呼ぶのはたんなる自意識過剰にすぎないが、叔母と姪はこの自意識過剰によって結ばれていて、その二人の関係が主題だと明言されているのである。

 主題はありふれているが、そんなことは百も承知だというように、その主題が同時に方法でもあるのだと次に明言される。

「今後一切の文章は、それこそ一瞬に消え去る琥珀色のあめ玉をなめ続けている振りをしようという面白くもなんともない試みである。無論、人目を引く告白をする蛮勇の気をくじかなくてはなるまいし、叔母を妙好人や地上の星に仕立て上げることも謹んで避けなくてはならない。しかし、のたうち回ってきた道筋や足下にぬらぬら光っている体液のきらめきこそを感傷と呼ぶのだ。それはその都度、不順な天候に応じて濡れたり乾いたりしているようだが、それなしに何かを思い出すことも考えることもできはしない。だとしたら、思い出話の真ん中で誰が輝かずに済ませられるだろう?」

 ほんとうはこれは「あの少女」の「人目を引く告白」なのであり、叔母がじつは「妙好人」でも、また「地上の星」でさえもあることを明かす話なのだが、そんなふうに誰が書いてやるものか。とはいえ人は、感傷なしに何かを思い出すことも考えることもできはしない、叔母も姪も輝くに決まっているのだ、というのである。

 文章はさらに、この輝きが多くの読者に伝わることを願うが、期待なんかしていない。というのも、バディ・グラスことサリンジャーや、カルヴィーノといった連中よりも、いまでは、「世界中に向けてためらいなく『ねえ、キティ』とやる調子」の、つまりは村上春樹のような作家が「確固たる『読者』というものを労なく有している」からであり、じつはそのことには「個人的には相当まいっているところ」なのだ。そんな状況は「開放的閉塞感」を与えずにはおかないが、そのなかでなおこれを書こうというのは、叔母や姪や弟といった人物たちにその「開放的閉塞感」を分有させ、そのことで彼らのそれぞれを輝かせようと考えているからであると、分かりやすく書き直せば、そんなふうに続く。

 文体そのものが自意識に身をよじらせているようなものだが、それがつまり作者の方法だというのである。

 主人公の「あの少女」の名は阿佐美景子、高校二年生、十七歳。叔母の名は阿佐美ゆき江、おそらく四十前後、独身。景子の祖父つまりゆき江の父の経営する眼科医院の事務をしている。景子一家が住んでいるマンションは医院の間近にあり、父母と弟の四人家族。景子の父がゆき江の兄である。医業を継がなかったわけだ。

 物語はないに等しい。景子の高校生活が、体育教師の授業、国語教師の課外授業などを通して描写されるが、重点は学校帰りに立ち寄る医院での叔母・ゆき江との会話にある。景子は父に叔母の恋愛体験の有無を尋ねるし、また、叔母に自身がすでに処女ではないことを打ち明けるが、それこそ「人目を引く告白をする蛮勇の気」はくじかれているし、「叔母を妙好人や地上の星に仕立て上げることも謹んで避け」られている。

 注意すべきは、景子は美しく、ゆき江は醜いという事実が繰り返し強調されること。この身体的属性の強調がそのまま自意識過剰の強調になっていることは、身体の細部が描写されているにもかかわらずそれらのすべてがきわめて観念的であることからも分かる。というより、人間にとっては身体が観念にほかならないことが強調されているというべきだろう。

 景子が自閉症的、自傷癖的、拒食症的であるとされていることにしても同じだ。観念もまた身体化されているのである。叔母と姪の会話は文学的であり自意識過剰だが、その自意識過剰はすべて身体化されている。著者がそのことにのみ専念していることは、自閉症も自傷癖も拒食症も少しも事件化されないことからも明らかである。著者は身体と観念の関係だけを語りたかったのであり、その輝きを示したかったのだ。

 ここで表に出ようとしてうごめいているのはしたがって、唯一、人類の自己家畜化という主題であるといっていい。それが、たとえば石坂洋次郎の『若い人』や橋本治の『桃尻娘』と似たような系列の情景を描きながら、まったく違う印象を与える理由なのだと思われる。

 人類の自己家畜化というのは、人間は犬や猫、羊、牛、馬などを家畜化することによって文明を築いたが、それは人間が自身の身体を家畜化――奴隷化――することによってはじめて可能になったのだという意味においてである。言語の習得は自己の対象化と表裏だが、それがそのまま自己の家畜化、すなわち修身、自己鍛錬となる。この自己の自己自身に対する関係を他の動物に及ぼせば家畜化となり、他の人間に及ぼせば奴隷化になる。家畜と奴隷が貨幣の起源であることは指摘するまでもない。人間は自身の家畜化によって自意識――すなわち文学そして経済――を得たのだ。叔母と姪がはまりこんでいるのは、この問題にほかならない。

 小説のなかでもっとも印象に残るのが、末尾近く、ペットショップで「目に傷のある」ウサギに強く惹かれる場面であり、それを買い逃がし、しかしそれでいいと思う場面であることは、したがってまったく偶然ではない。小説はここで初めて自分の主題に直面しているのだといっていい。