穂村弘の本じゃないみたいだ、とまず思った。
『世界音痴』『現実入門』『絶叫委員会』といったこれまでの穂村弘の諸作は、題名にあらかじめ異様さが備わっていた。それらのエッセイ集の多くは男性の自意識や、世界への違和感を愉快に細密に大胆に描ききり多くの読者を得たが、「世界」「音痴」「現実」「入門」と選ばれた熟語はそれぞれ特に奇異でないのに、組み合わせはかつてみたことないものであり、「すごみのあるカマトト」というべき異様さを獲得し、我々を少しく怯ませもした(はずだ)。本文では菓子パンを頰張るダメ男を標榜しながら、油断ならぬ明晰さと怖さがうっすら(題に)露呈している(なんの本か忘れたが「白馬に乗ったお姫様はまだ?」という帯文も忘れがたい。なにいってんだ? と)。
本業の歌人としての歌論も、その最初の作は『短歌という爆弾』という物騒な題だが、これは題だけでなく中身も異様だった。本文は一段組、二段組から横書きへと体裁をめまぐるしく変え、常にゴシック体で語られることや、あとがきの文字の詰まり具合まで、すべてがおかしい。刊行当時は歌人が商業出版を果たしたということ自体がトピックで、友人である氏の刊行のニュースをおおいに喜んだ僕だったが、読むほどに(思ったのと違う)面妖なものをみた気がして戸惑ったのを覚えている。体裁だけでなく内容ももちろん不思議だった。短歌について語っていたはずが不意に詩の朗読になっていったりしたのだ。
本書は『短爆』から十五年を経て刊行された最新の歌論だが、普通の組で明朝体で記されている(短歌も大きく記されてみやすい!)ことに、だからまた戸惑った。じゃあ、あの変な読書は夢だったのか? と。
内容も平明だ。章ごとに「高齢者を詠った歌」「ハイテンションな歌」「間違いのある歌」などとテーマを設け、短歌を数首紹介し語る。「ゼムクリップの歌」や「落ちているものの歌」などは、詠われがちな素材の共通項を(膨大な歌群から)よく見つけだしたものだと、短歌の作者たちではなく氏の目に驚く。
不意に詩のようになる瞬間もあるにはある。たとえばエレベーターガールの歌を「評している」はずの言葉が、ただのエレベーターガールそれ自体へのうっとりした空想になっていったりするが、おおむね語り口も分かりやすく鋭く、短歌入門書として好適の内容だ。むしろ、これまでの諸作に感じた感じ方とは異質の驚きもある。たとえばそれこそ、あまりに平明であることに。今作では「なんとも云えない魅力がある」「なんとも云えない味わいが宿っている」といった無防備な褒めの言葉が衒わずに用いられる。普通、それは「うまく言えなくてもどかしい」ときに出る安直なフレーズだが、本作の場合その前後で大抵なんとも云え「ている」から、わざとなんだろう。読む者の理解の遅さにいったん歩調をあわせてくれているような「なんとも云えない」だが、『爆弾』を抱えていた若い穂村弘には出来なかったことかもしれない。
二冊とも、葛原妙子の歌に多くの頁を割いているが、語られる内容は(引用歌も含め)異なっており、読み比べる面白さがある。『短爆』の論評の方が生硬で熱い、そして論の言葉が(おそらくは努めて)歌にのみ向いているのに対し、本作では実益の伴わない事項に眼差しを向け続ける作者の姿をも慈しんでいるような文章になっている。
これまでの諸作から引き続く言葉も多い。本書内の「我々が生きるためには、その前提としてまず生き延びる必要がある」という言は、過去の歌論かエッセイかでも繰り返しみてきた。「生きるためには生き延びる必要がある」という無駄なリフレインが印象的で、そこには既に詩的な強調がある。「だがしかし、我々は生き延びるために生きているわけではない」とさらに続くことで、短歌(詩)の意義を言ってみせるのだが、本書では後半が省かれた。「生きる」四回の繰り返しの強さ(=詩性)を用いずに(平易に、普通に)語る難しさを選んでいるのだ。
また少し前、氏は短歌を「金利」と併せて論考してみせた。好景気の時代の空気は、当時の現代歌人の表現をもバブリーにした。牛乳から無限にヨーグルトが作れるように、貯金がただ増えていく時代の書き手(自身も氏は含める)と、二〇〇〇年代の若手歌人たちの表現には、言葉上のことだけでない変化がみられる、と。感銘を受けた僕自身もさまざまな表現にそれ(金利で示される時代の空気)をみてとり、考えの参考にしたものだが、この新作ではもうその考えを用いていない。そこからさらに「積み足された現代」を継続的にみてとろうとしているようだ。若手の短歌の「平仮名二行書き」や文字の(一文字でない)二字空けなどの技巧を「丁寧に捨て身になってゆくことで何とか活路を見出そうとするような」感覚と評しているのは、ただ金利のない時代の「人生への期待値の低い」若者の創作でない、それ以降のパワーをみてとろうとしたのだ。短歌も地味に更新されるし、だから言葉もまた更新していこうという意欲がある。
もしも戦場で、武装している人と出会ったらもちろん身構える。だが、手ぶらの人間が現れたらきっともっと凄みが感じられるだろう。とうに爆弾を捨てた者の、徒手空拳の一冊だ。平易だが、凄みはこちらにも宿っている。これで「決定版」ではない、さらに「生き延びよう」としている氏の次なる言葉も待ちたい。