『匿名芸術家』のあらすじを整理して述べることは私には難しいが、なにが書かれているかをある程度列挙することはできる。おもな登場人物は、作家を志す「私」と画家を志す「彼」。「私」が創作の訓練として、往復ハガキを一日につき一枚用い、何年ものあいだ日常を記し続けたメモと、その膨大な蓄積。「私」にそのやりかたを教えた大学時代の「先生」のこと、彼の著作のこと。印象派の画家たちに寄せる思いや、彼らの逸話。「私」や「彼」の居住した練馬区南田中や杉並区南阿佐ヶ谷周辺の交通事情。高級スーパーについて書かれた『スーパーマーケットまでの旅』というエッセイ本のこと。完成させることのできなかった「私」の小説『裸足の僧侶たち』。印象派や、近隣の公園をモチーフとした「彼」の絵。そして、ときどき差し挟まれるのは最終的に「田中南」というペンネームで書き上げ、「第三十五回S新人賞受賞作」となる『四十日と四十夜のメルヘン』の一節だ。
本書を読むと、これらの情報が渾然一体となって押し寄せてくる。さらに、本書にはその『四十日と四十夜のメルヘン』も併録されているが、これもまた膨大な量の紙(ここではチラシ)、日々のメモ(日記)、「わたし」の書く小説が互いに互いを食い合いながらどっと流れていく小説である上に、駄目押しのようにこの『四十日……』は著者・青木淳悟が二〇〇三年に第三十五回新潮新人賞を受賞したまさにその作品である、という事実が存在する。
だから、たぶんこの小説は、小説家とその人が書く小説の関連性について検証したものであると思うのだが、それにしても気になるのは印象派だ。「私」がしきりに心を寄せる印象派。その記述にはかなりの分量が割かれており、尋常のこととは思えない。なぜ印象派なのか。
日本では絶大な人気を誇り、展覧会に行くためにはあまりの人出の多さに入念な体力づくりが必要とされる印象派だが、その名はもともとは侮蔑と批難の意味を込めて呼ばれることも多かったのだという。けっこう有名な話だ。その理由として、『ケンブリッジ 西洋美術の流れ6 19世紀の美術』(ドナルド・レノルズ著 高階秀爾・高階絵里加訳)は、「アカデミーにおいて、素早く自然に描かれたスケッチである〈初案〉と〈印象〉とは同義語であった。アカデミックな伝統のなかでは、スケッチはつねに、完成作への一段階だったのである。したがって、批評家にはまるでスケッチのように見える作品を展示することは、アカデミックな基準である正しいデッサン、形態と仕上げを無視したかのように見られたのであった」と述べている。
私が勝手に引いてきたこの部分だけで、すでに一人でなんとなく合点がいっている。私が冒頭でやらかしたように、なぜ本書のあらすじをまとめることができないのか、その答えがここにある。それは、私には本書がスケッチの集積のように感じられるからだ。しかも、スケッチのようだと感じさせるよう入念に書かれたその文章のかたまりのなかに、明らかに往復ハガキのメモ、すなわちスケッチから引いてきた文章が散見される。つまり、この小説自体が言うなれば印象派なのだ。そういえば、印象派とは、神話や聖書から材を取るのではなく、主観的な実生活を描こうとする一派だった。小説家にとって主観的な実生活というと、それはもう小説を書くことであり、小説と生活の癒着や乖離のめくるめく様相であるにちがいない。
ここで本書が、東京都M市のカルチャーセンターの廊下でとある裸婦像の油彩画を見て、「まるで、アングルのような……」と感嘆し、ややおののくところからはじまることに注意したい。ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルは、美術史において良くも悪くも古典的アカデミー絵画の権化のような扱われ方をしている。さきほど私が紹介した本の引用部にある、「アカデミー」とか「アカデミックな伝統」とは、おおむねアングルのような絵画を指している。本書では、アングルと「印象派趣味」との違いを「筆触の跡を残さぬよう、冷たくも緻密、艶のある丁寧な仕上げ」であると指摘している。そのほかによく言及される特徴を挙げるとしたら、描線の優美さと明快な形態だろうか。
先にも述べたように印象派の黎明期には、一派の絵画を評価する能力を持たない人がたくさんいた。理解したり美しいと感じたりするのは、本能に依るところが大きいように思われがちだが、それはまちがっている。なにごとも、訓練によって培われるのだ。印象派が今日美しいとされているのは、印象派の画家たちが新しいものの見方、提示の仕方を見出し、突き詰め、磨き上げていくにつれ、見る側も見る技術を獲得させられ、鍛え上げられ、確立させられたからだ。印象派には、そうさせずにはおかないすぐれた芸術の力があった。
前述の本によると、「ルノワールの『陽光の中の裸婦』について、画家の描いたモデルの肉体は、腐りかけていると言った」批評家もいたそうだ。印象派の画期的な取り組みのひとつは、戸外の光が実際にどのように人間の目に知覚されるのか、正確に描き起こそうと試みることだった。印象派が成功をおさめたのちは、ルノワールが裸婦の肉体に塗った藍色や紺色の色面が腐肉の色だとはあまり聞かない。私たちはすでに訓練されている。あれらは影であると認識する能力を持っており、平然とそれを行使している。
ものすごく雑な物言いだが、絵画を小説に置き換えるとして、本書がスケッチのようではない、アングルの絵のような小説ならば、私はおそらくあらすじを言うことができただろう。本書のような印象派の小説については、私の読む技術はまだ訓練の途上にある。あらすじを紹介しようと苦心した挙句失敗しているのが、何よりの証拠だ。しかし本書は、今まさに新しいものの見方を、新しい美しさを学んでいるという興奮を与えてくれる。青木淳悟が彼のやり方を追求していくかぎり、読む者の技術は底上げされ、向上し続けるだろう。そうさせずにはおかないすぐれた芸術の力が、青木淳悟の小説にはある。