〈世界史〉の哲学 イスラーム篇

大澤真幸

2200円(税込)

「近代化」を拒むイスラーム

浜崎洋介

 社会学的言語と批評的言語を分けるものは何かと考えたとき、いつも思い出す言葉がある。吉本隆明の「自己投入」(「転向論」)という言葉だ。批評的言語は、必ず一般化できない個的な視点、つまり「自己投入的な実行者の観点」を言葉に付与するが、社会学的言語は、その「自己投入」した観点を敢えて括弧に入れることで、その「自己」を強いている前提条件=社会構造を洗い出そうと試みる。その意味で、社会学と文学とは決定的な緊張関係にあるが、同時に、両者が緊張関係にあるというまさにそのことによって、社会学的言語は批評的言語が自堕落な心情論へと堕すのを防いでいるとも言える。

 では翻って、この大澤真幸『〈世界史〉の哲学 イスラーム篇』の言葉はどうだろうか。それはまさに、ともすれば安易な心情論に陥りがちな宗教的主題に対して、そこに明確な構造的条件(言語ゲーム)を描き出しているという点で、文学にとっても貴重な仕事(緊張)となり得ている。とりわけ、イスラム国(IS)への対処が喫緊の国際的課題となっている現在、イスラーム教圏に対するイメージ先行型の議論を抑制し、冷静で歴史的な認識を促すという意味でも、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラーム教の違いを構造的に描き出している本書が持つポテンシャルは高いと言うべきだろう。

 まず、大澤真幸は大きな問いを提示する。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教とは同じ神(ヤハウェ=アッラー)を崇める厳密な一神教でありながら、なぜ近代においては、西洋のキリスト教に源泉をもつ文明だけが覇権を握り得たのかと。しかも、前近代においては、経済面、文化面において先進的だったのはイスラーム教圏であり、西洋自身が、そのイスラーム地域に溜め込まれたギリシアの知的成果を逆輸入することでルネサンス以降の近代化を果たしていたにもかかわらずである。そして、この問いを前提に、大澤は三つの一神教の中に潜む微妙な差異を描き出していくことになる。

 その際、興味深いのは、拝一神教(二つ以上の神を認めながら、その中の一神だけを崇拝する宗教)から唯一神教(排他的一神教)へと脱皮を遂げたユダヤ教を前提としたとき、そのユダヤ教が孕んでいた「謎」を深化させたのがキリスト教であり、その「謎」を解消したのがイスラーム教だとする大澤の整理である。そして、この「謎」の核心において洞察されていたのが、一般的な宗教が前提とする神と人との間の互酬的贈与関係(均衡感覚=公平性の感覚)を裏切るユダヤ–キリスト教の特異な性格だった。

 たとえば、『旧約聖書』が描くカインやヨブの逸話が示唆しているのは、自らの善行に対する神からの反対贈与(報い)がないことはもちろん、どんな不条理な仕打ちをも受け入れ、それに耐えるべきだとする教えだろう。むろん、それはユダヤの律法主義(互酬的感覚)とは矛盾している。が、この互酬的な秩序感覚への裏切りは、キリスト教に至ってより加速され、決定的となっていた。それはイエス自身が、見返りを求めず徹底的に贈与する人だったということもあるが、それ以上に、神であり人であるイエス=キリスト自身が謂れなき苦難を味わい、最後は神に見捨てられて殺されるという福音書の「謎」として示されているだろう。そして、大澤は、このイエス=キリストの「謎」においてこそ、キリスト教は互酬的な契約関係の基礎にある「律法」を終わらせたと言うのである。

 だが、キリスト教からおよそ六百年後に誕生したイスラーム教において、この「謎」は逆転的に解消されていた。まず、神の超越性を純化したイスラーム教において、その教祖であるムハンマドに「神の子」などという超越性を付与することは避けられる。また、神を経験的に描く偶像崇拝の一切も固く禁じられるだろう。そして、「神の言葉」から直接、間接に導き出されたイスラーム法において、神と人間との間は、まさに因果応報的で互酬的な契約関係(律法)として整備され直すのである。

 しかし、ここで注意すべきなのは、この「謎」の解消においてこそ、近代に適応できなくなってしまうイスラーム教の困難が現れているという大澤の指摘である。「法源」(神の意図)を「謎」のままに宙吊りにし、それを不定化することで、〈神の意図の解釈=法〉を更新することができた西洋のキリスト教社会(神の創った自然に対する解釈更新としての科学革命も同じ)に対して、「法源」を「神の言葉」に一元的に固定化してしまっているイスラーム教は、雑多な他者との間にその都度の関係を組み替えていかねばならない近代社会=資本主義社会の流動性に適応できなくなってしまうのである。

 そして、この神の「謎」の深化/解消についての議論を中心に据えながら、大澤はイスラーム教についての様々な疑問に答えていく。たとえば、なぜ、信仰を「神への投資」として表現するイスラーム教社会が資本主義化し得なかったのか、あるいは、なぜ、歴代のイスラーム帝国は異教圏から連れてきた奴隷達によって軍人官僚組織を作り上げなければならなかったのか、そして、なぜ、神への「無条件的な自己委託」を要求する厳格な一神教の下で部族社会が解体されなかったのかなど、大澤真幸の社会分析は深められていくことになるだろう(『群像』での「近世篇」の連載はまだ続いている)。

 ところで、本書を読みながら私は、近代において容易に落ち着きを見せないイスラーム情勢の苦しさを思わざるを得なかった。それは、日本の近代化の苦しみとも重なるところもあろうが、しかし、法的な柔軟性を持たないイスラーム教圏において、その苦しみは私たちの想像を絶している。現在の原理主義的傾向も、この近代化への適応異常における発作的痙攣現象なのではないか。少なくとも、それは単なる暴力という以上に、己の〈文化=生き方〉を失った人間たちの苦しみという性格を担っていることは間違いない。