この本には意表を突かれた。詩人が書いた、偽詩人についての小説である。タイトルからしてユーモアたっぷり。詩が好きで好きでたまらないのに、自ら詩を書くことはできない男性の話。彼はコンプレックスを持ちつつ、世界中の詩を読みまくる。社会人になってからは、海外に駐在している利点を生かして、さまざまな詩祭に聴衆として出かけていく。そうしてインプットされたたくさんの詩が、ある日突然アウトプットの機会を得て、気がついたら押しも押されもせぬ(偽)詩人になっていた……。
結末は哀愁が漂うが、全体は軽やかな小説である。もっとも、読んでいるといろいろなことが気になってくる。たとえば主人公の名前。「吉本昭洋」(読みは「よしもとあきひろ」?)って、著者の名前によく似ている。ちょっともじっただけとしか思えない。主人公についての設定も、著者と共通点が多い。高校時代は中国地方(著者は広島、主人公は岡山)で過ごし、大学に入るときに東京に出てきている。若き日に中原中也に傾倒。二十歳前後で母親と死別。社会人となってまもなく海外勤務……。
自伝的小説? 答えはもちろんイエスだろう。(私小説、いや詩小説というべきか。)しかし、「詩人」「偽詩人」というところで、著者と主人公の道ははっきりと分かれる。そもそも吉本昭洋は詩が書けない。こんなふうに断定されている。「どんなに詩人を気取ってみても、いやむしろ気取ろうとすればするほど、詩人と自分を隔てる決定的な違いが吉本昭洋の前に立ちはだかった。言うまでもなくその違いとは、詩を書くという行為そのもの。端的にかつ徹底的に、昭洋には詩が書けなかったのである」
でも、「端的にかつ徹底的に」詩が書けないとはどういうことなのだろう? その逆の「詩が書ける」ということについても、考えずにはいられなくなる。どんなものが書けたら、「詩が書ける」ことになるのだろう? 「詩」が成立する条件とは、いったい?
世界には、自称詩人がゴマンといるのではないか。そのなかの誰がほんもので、誰が偽詩人なのか、決められる人がいるだろうか? 詩の雑誌で特選になれば、何かの賞を取れば、あるいは文学史の本で言及されるようになれば、詩人として胸を張れるのだろうか? そのような(制度的)認知を受けなければ、詩人になることはできないのだろうか?
吉本昭洋は、他人の詩を翻訳流用してデビューする。(その詩のタイトルが「TVウーマン」というのだが、著者自身がかつて英語で詩を書き、それを自ら日本語に訳した「翻訳詩集TVウーマン」という連作を作っていたエピソードが、現代詩文庫の『四元康祐詩集』に紹介されている。)
盗用、剽窃、それはたしかに、よくないことだ。その場合は偽詩人と呼ばれてもしかたないだろう。じじつ、疑惑が明るみに出て吉本昭洋はさんざんバッシングを受ける。だが小説のなかでは、弁護者も現れるのだ。吉本昭洋が人生の節目節目で出会った詩人、大町蜥蜴は次のように書く。「たしかに私たちはそれぞれ自分だけの詩を求めて日々呻吟している。他人には決して書けず、世界でただひとつだけの独自の詩。遠目にそれは存在する。だが間近に寄って仔細に検分してみると、この唯一無二の詩には、実のところ、特殊なものは何もないのである」
人間は模倣によって言語を習得する。文章を書く技術も、模倣なしに伸ばすことはできないだろう。詩という独自のジャンルにも、そもそも先人がいなければ、どうアプローチしていいかさえわからない。とすれば詩のオリジナリティとは何か。
作家の辻原登が、創作のヒントとして「パスティーシュ(模倣)」の重要性を論じていたことを思い出す。古今東西の作品を読み、アイデアを盗む。そこに自分なりのアレンジを付け加え、新しい作品として世に送り出す。文学史を繙けば、そうした模倣から傑作が生まれた例に事欠かないだろう。四元康祐には『言語ジャック』という、既知のテクストのパロディーで遊び倒した痛快な詩集もある。新幹線の車内放送をいじったり、「雨ニモマケズ」をリサイクル(!)したり、『マルテの手記』のなかの疑問文を書き換えたり、名詩と呼ばれる作品から名詞だけを抜き出したり……。尽きぬ発想と遊び心に満ちた試みが並んでいるが、これも四元のなかに膨大な言語のストックがあるからこそだろう。他者の作品をただありがたく拝読するだけでなく、積極的にそれと戯れる度胸があり、あらゆるテクストのなかに詩が遍在することを著者が確信しているからこそ、これが「詩集」となりうるのだ。(「最初は、詩は世俗を離れたいわゆる文学的命題のみを扱うものだと考えて」いた四元が、「およそ世の中で起こっているすべての事柄は、世俗であれ高尚であれ、人事であろうと天上の出来事であろうと、詩に書くことが出来る、詩とはそれくらいヴァーサタイルな表現形式だと云う希望を持つに到りました」と、デビュー詩集『笑うバグ』のあとがきで書いていることを想起しよう。)
この小説には、「翻訳」の話もたくさん出てくる。「昭洋にとって翻訳とは、なによりも先ず外国語と日本語の狭間に身を浸すことだった。その狭間には言語がなかった」
よく似たことを、『エクソフォニー』などの著書で知られるドイツ在住の作家、多和田葉子も書いている。何もない言語の狭間に沈潜することで、言語と新しく出会い直すことが可能になる。辞書を使って単語の一対一対応で訳している段階ではまだ気づくことのできない、翻訳の意外な創造性がそこにある。
人生こそ詩。この小説は、そんな詩への賛歌に満ちている。詩にまみれ、詩そのものとなって生きてやるぞという、けっして「偽」ではない詩人の、渾身の宣言が聞こえてくる。