貞明皇后といわれてもぴんとこない。大正天皇妃節子(さだこ)だといわれて、ああそうでしたか、と不得要領にうなずく程度だろう。
大正天皇も印象は薄いが、読み終った詔書を丸めて覗いたという「遠眼鏡」の挿話はなぜか広く知られている。しかし皇后の人柄と人生など、誰も気にしていなかった。
もと九条節子であった貞明皇后は、体格が立派であったために、皇子誕生を望みやすいという理由で皇太子妃にえらばれた。ついに実子をもうけなかった明治帝皇后美子(はるこ)の轍を踏ますまいと周囲は考えたのである。その甲斐はあったか、少女時代を東京郊外で自在にすごした「お転婆」な華族の娘は、嫁してすぐ十六歳で裕仁(昭和天皇)を、十八歳の誕生日には雍仁(やすひと)(秩父宮)を生み、さらに二人の皇子を誕生させた。
しかし五歳年長の大正天皇は、意志が弱く病弱であった。のみならず女性へのただならぬ「御癖」が貞明皇后の悩みの種となった。
三島由紀夫『豊饒の海』に登場する奈良・帯解(おびとけ)の月修寺門跡は俗名綾倉聡子、一九一四年に二十歳で死んだ松枝清顕(まつがえきよあき)の年上の恋人だった。宮家への輿入れを望まれていた彼女は、宿した清顕の子をおろして剃髪した。
この人のモデルは、二十四歳年少だが、一六年一月、つまり大正天皇第四皇子崇仁(三笠宮)誕生の翌月に生まれた女児(やすこ)であった。やがて彼女は円照寺の尼門跡となり、山本静山(じょうざん)を名のった。
「いかにせむああいかにせむくるしさの やるせだになきわが思ひ川」という皇后の和歌は、「御癖」への苦悩の表出であった(濁点を付し、踊り字はかなに戾した――以下同)。
貞明皇后は二二年三月、九州北部を詣でた。倭健(やまとたける)の子・仲哀天皇が陣没し、かわって妊娠中の神功皇后が「三韓征伐」に向かい、陣後の西暦二〇一年頃、応神天皇を出産したとされる地である。香椎宮で一心不乱に祈った貞明皇后は、神功皇后と一体化する境地を味わった、と著者原武史はいう。
帰路は門司から軍艦「摂津」に乗ったが、波荒く、浸水して皇后座所まで水浸しとなった。しかし彼女は落着いていて、つぎのように詠んだ。
「韓(から)の海わたらしし日のあらなみも かくやと思ふ船出なるかな」
貞明皇后(昭和改元後皇太后)は船好き海軍好きであった。のみならず神功皇后の霊と感応した彼女は、外征した神功の加護を信じていたのであろう。
原武史は、貞明皇后の心情をさぐる有力な手立てとして皇后歌集『貞明皇后御集』『大正の皇后宮御歌謹釈』を読み解いた。彼女の和歌は近代短歌ではなく、儀礼贈答の古典的役割をになったものにほかならないが、貞明皇后の場合、主観がより多く反映されているようで、ツイッターに似た部分がある。古い表現を分析するこの新しい方法こそが、『皇后考』の画期性を保証する。
その後の貞明の心情には、神功を「神と人間である天皇の中間」たる「ナカツスメラミコト」として天皇の上位に位置付けたばかりか、「血と肉」に基づく「万世一系」の皇位継承を否定して、「霊」による継承を説いた折口信夫の考えに通じるものがある。
二六年十月、すなわち裕仁が病身の大正天皇の「摂政」となって五年、大正天皇が没する二ヵ月前に、伝承では事実上の女帝であった神功皇后を天皇の列に加えないとする詔書が渙発された。それは神功の記憶の浮上とともに、貞明が将来「西太后」化して「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」を行うことを恐れた元老らの意志のあらわれとも考えられる。
「神代より男(お)の子(こ)にまさるおこなひも ありけるものをはげめをみなら」
日米開戦して戦況が著しく不利となったのちも、貞明の意気は「ドンナニ人ガ死ンデモ最後マデ生キテ神様ニ祈ル心デアル」と、悲愴にして軒昂であった。「神様」とは、アマテラスであり神功であろう。
四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。まさに大事業であったが、それなしに日本は終戦への道筋を進むことはできなかったのである。貞明皇太后が、ある意味で日本の運命を握っていたとは、本書に接するまでまったく知らなかった。
しかるに、敗戦を「運命として受け入れた」のちの彼女は、「まるで憑きものが落ちたかのごとく」その戦闘性、原理性を捨てるのである。だが皇太子の家庭教師として来日したヴァイニング夫人は、貞明皇太后に会い、その威厳に遠く「ヴィクトリア女皇」を連想したという。彼女が十六歳から「さまざまな葛藤を克服して」なり得た「皇后」というもの、あるいは「〈霊〉による継承」を行ったと信じた神功皇后の面影は、敗戦によっても損なわれなかったのである。その五年九ヵ月後の五一年五月、貞明皇太后は狭心症で没した。六十六歳であった。
「憲法や政治制度だけでは見えてこない〈政事の構造〉を読み解かなければ、近代天皇制を理解したことにはならない。その鍵となるのは、天皇ではなく皇后であり、皇太后なのである」という原武史の視線は、「最高のカリスマ的権威をもった〈政治家〉」である現皇后にも、日本文化に脈々と伏流する強烈な女権、というより女性性の歴史を見とおして、さらにその先の時代にもおよぶ。
スリリングな読書体験をもたらしてくれる『皇后考』は実証的な歴史書であると同時に、みごとに冒険的な文学である。