猫の水につかるカエル

川崎徹

1760円(税込)

二十一世紀の日本語の冒険

田中和生

本当にすばらしい。

が、簡単にそのすばらしさを言葉にさせてくれない作品集である。書き方にけれん味はなく、かつての志賀直哉にはじまる私小説の延長線上にあると言っていい、端正で透明な語り口だ。内容を説明しようとすると、作者自身と思しき語り手「わたし」の身辺雑記であると言うしかない。その意味で、書き方と内容からは一九四五年の敗戦によって日本の近代文学史上では完全に過去のものとなった、エッセイと見わけがつかない心境小説のように見えるのだが、しかし決定的に異なるのは、そこにはたぶん私小説作家たちがその作品の根源に置いた「見られたい自分」がないことである。

作者は「ハエハエカカカ、キンチョール」(大日本除虫菊「キンチョール」)や「ヤッホー」「もしもし困るねえ、……ここはもろこし禁止ですよ」(明治製菓「もろこし村」)といった一九八〇年代におけるテレビ広告の傑作コピーの書き手であり、一九九〇年代には主人公が人間でも記号でもない文字どおりの「0」である「0」という前代未聞の小説も書いているが、基本的には本書にある言葉も、そこからつづく言葉の意味を空っぽにするというやり方で書かれている。そうして書かれた言葉は「こんなにすばらしい商品ですよ」とか「ぜひ買ってください」という意味があふれるコピーのなかで際だつことで商品を宣伝し、およそ人間を描くことにも物語をはじめることにも向かない主人公を小説のなかに存在させることで読者の哄笑を誘うが、ちょうどそのコピーでは宣伝する商品にあたり、「0」のような小説では「小説らしさ」にあたるのが、おそらく本書では六十歳をこえた現在の作者自身を思わせる「わたし」の父や母の死である。

たとえば臨終間際の父との会話ではじまり、その通夜の場面が回想される「傘と長靴」で、読者は「わたし」が父の死について語りたいのだという印象を受けとる。そしてどこかで広告のように「こんな父でした」という意味をもつエピソードや、小説らしい小説として父という人間や父の物語を説明する言葉が書かれることを期待する。けれども作者が作品の中心として書きつけるのは、およそ父の死とはなんの関係があるのかわからない、八年前に父を亡くしたらしい「わたし」が十年来早朝の日課にしているという、近所の公園での野良猫への餌やりのことである。

詳細に語られるその餌やりの内容は、それ自体が感動的だ。現在は三十匹近くまで減っているが、かつて八十匹いた餌をやるすべての猫に「わたし」は「おいどん」や「パンダ母」といった名前をつけ、その餌の好みを把握している。会えば過酷な野良猫生活のなかで今日も無事であることを一匹一匹確認し、餌をやって「じゃ、また明日」と言って別れる。具合の悪い猫を病院に連れていったこともあったが、結局は飼い猫にできるわけではなく、すべての猫を救うことができない以上「わたし」は餌をやるだけだと決めている。そうして猫が姿を見せなくなるその死の日まで、一日も欠かさず気づかいつづけることが「わたし」の仕事である。すでに六十匹以上の猫を看とったという。

父の死について語るものとして、その猫の餌やりは意味が空っぽである。にもかかわらず、いやだからこそそれは父の死について語ったものとして、読者を揺さぶらずにはおかない。意味を空っぽにすることが父の死について語る方法なのだとわかるのは、生きている父を気づかうかのように「わたし」が反芻する、まだ子供だった「わたし」が雨の日の夕方に傘と長靴をもって、雨具のない父のために駅の改札で父の帰りを待っているという、それも正確かどうかわからない記憶の場面である。作品の末尾で「わたし」はそのとりとめのない記憶を確かめるように、かつて子供だった自分が父を待っていたはずの駅へ行き、あまり変わっていない駅舎の改札口の前に立つ。  

《改札のまわりに傘と長靴を持った子供の姿はなかった。ひとりくらいはと見渡すが、どこにも見当たらなかった。  寒風が階段から改札へ、音をたてて吹き抜けた。

人々はわたしの横をすり抜け、駅を出ていく。立ちどまり、待ち合わせの相手を探す者もいた。だがその相手はわたしではない。

あてもなくわたしは待った。早目に切りあげればよいものを、かなりの時間そこに立ち、人の流れを眺めていた。  

はた目には誰かを待つ人間に映っただろう。わたしは誰も待っていなかった。しかしずっと立っていたら、誰かを待っているような気持になった。むかしを思い出したのではなかった。駅頭に立つ、いや、人の流れに向かって立つ行為そのものが、待つことを表わしていた。》 

そこに「ある」のは「ない」ものばかりである。そうして「ない」ものばかりの言葉を書きつけることで、父について明確に語ることのできる言葉を待つこと。それが父の死について、意味が空っぽの言葉で語るということである。しかしそのような書き方だけが、死んでしまった人間の存在を真の意味でかけがえのないものとして、生きている人間の前に差し出しつづけることができる。

わたしは「傘と長靴」を読みながら、なぜか子供のころの自分とまだ死んでいない自分の父のことが思い出されて仕方なかった。それは作者がその作品の根源に置こうとしているのが「まだ見たことのない自分」だからではないか。心境小説の言葉を『異邦人』のカミュのようにつかった、二十一世紀の日本語の冒険だ。  

本書におさめられたもう一つの中篇「猫の水につかるカエル」は、さらに母の死について語ったという意味を取りだしにくいが、中心となるのは膵臓癌の疑いが出てきた「わたし」の飼い猫や旧友との日常である。そのあいまに父よりも先に膵臓癌で死んだ母のことが回想されるが、その母とはまったく無関係に光り輝いているのが、春になるごとに飼い猫の飲み水の容器を占領する「猫の水につかるカエル」のイメージである。