写真家の文章にはかなわない。
と、つねづね思ってきたのだが、四代にわたる家族の記憶を綴ったこのエッセイ集を読んで、その感をいっそう強くすることになった。しかも、作者にとってはこれが初めての文筆作品だというからすごい。余分な肉を削ぎ落とした文章は、しなやかであると同時に硬質で芯が強い。
例えば、画家の文章には構成力でかなわない。音楽家の文章にはリズム感でかなわない。写真家にわたしが逆立ちしてもかなわないと思うのは、目である。対象を截りとる目の力である。しかし截りとる前に、その光景を全体としてとらえることができる。ここが違う。以前、女性カメラマンと話していて驚いたことがあった。彼女は知らない店に入ると、調度や照明灯の形、配置、数、人々の服装、テーブルの料理など、部屋の光景を無意識に目に焼きつけ、後から正確に再現できるという。どうしたらそんなことが出来るのか訊くと、「部分だけに焦点をあてず映像全体としてとらえること」。写真家というのは、全体をふわっと包みこむようにとらえた後、シャッターを切るのとほぼ同じ瞬間、初めて対象の核心にむかってぐーっと目の焦点を絞る、のだと思う。最初からあの花をこう撮ってやろうなんて狙って撮った写真はツマンナイものだ。
長島有里枝の文章にも、そういうすぐれた写真のようなスリルがある。表題作にして大傑作の「背中の記憶」は、恵比寿駅近くの古本屋にむかうところから始まる。その後意外な展開を見せるのだが、迷子になった末にたどりついたのは、アートブックの専門店だ。
「ペンキで白く塗られた木製の重たいドアを開くと、外から想像するよりずっと広さを感じる店内に、古本屋としては優雅に思えるほどゆったりと本が並んでいた。蔵書は少なめだが、本の表紙は皆、大切に育てた子どもに服を着せるように、半透明のグラシン紙に丁寧に包まれている。入り口付近の壁には美術品でも展示するかのように、表紙をこちら向きに並べた本が十数冊並んでいて、ちょうどわたしの目の高さにある棚に、開け放した窓と、外からの風に吹かれて膨らむレースのカーテンの写真が表紙の、一冊の本があった。」
読者はカメラマンとともに白いドアを開く。すると、本の整然と並んだ空間全体が目の前に広がる。その中で「ちょうどわたしの目の高さにある棚に」と読者の視線を導いた後、ワイエスの展覧会カタログの表紙に焦点があったその瞬間、カシャッとシャッターが切られる(という感じがする)。そしてカタログをめくり、クリスチーナの後ろ姿を描いた有名作を見るうちに、意外にもそれと重なるようにして甦ってくるのは、病で急逝した祖母の背中なのである。
厳しかったという曾祖母、「一階だけで十三間ある」鳶職の家で思いのまま育ち戦争で苦労した祖母、口うるさくて家族思いの母、くっきりした二重まぶたの愛らしい弟、長く独身でいた変わり者の叔父さん、団地できょうだい以上に仲良くしていた幼友だち……。子どもの頃からの記憶を、作者は文字というカメラで撮っていく。
あるときは、古い部屋の中に、煙草をふかす祖母の後ろ姿が映しだされる。視線は徐々におりて、孫娘は「腰のあたりで、疲れたように首をかしげるエプロンの蝶々結びを、その下のくるぶしの、畳で生活する人特有の赤黒くてかさかさした座りだこを(…)眺めては触りたい気持ちに駆られた」。そして彼女の目は「子どものわたしには存在しないそれら」だからこそ、座りだこを美しいと感じるのだ。過去に座りだこを描いたどんな小説があったか知らないが、こんな名文はなかなか出会えない。さらに孫娘は、赤い口紅を引き髪をセットして座る祖母の姿に、「遠回しに人を寄せつけまいとするよそよそしさと、誰かに声をかけてもらうのを心待ちにしている子どものような、おくてな人恋しさが同時に存在して」いると記述する。いとしいとか、なつかしいとか、切ないとか、そんな最初から焦点を絞ったような「狙った言葉」は長島さんには無用なのである。心を過去の何かがよぎる。自然とよぎるままに追いかけ、ともに記憶の広大な洞を彷徨い、と、ある瞬間、不意にそのレンズは「瞳のないカタツムリ」だとか「マンホールの蓋」だとか「プラスチックのじょうろ」だとかにフォーカスをあて、得もいわれぬ情感を浮かびあがらせる。
せっかちな母のようすを書いた「はやくとかわいい」では、光の描写が秀逸だ。 「カーテンにはいつでも少しの隙間ができていて、そこから細長い、眩しすぎて真っ白な色をした日光がひと筋、部屋に差し込む。光は(…)わたしの布団の上に長い線を引いているときもあれば、おとうとの?からつむった瞼の上までを傷のように走っているときもあるし、絨毯に亀裂が入り、その下から漏れ出して見えることもあった。(…)
ずんずんずんと母が、布団を踏みながら部屋を横切り、窓の前で立ち止まると、カーテンを勢いよくじゃっじゃっ、と左右に引く。光の筋が一枚の大きな平面になると、水槽はぱちんと割れて、中の濁った水はびしゃっと床を打ち、わたしの背後に流れ去っていく。」
光を自在にとらえるこの融通無碍さはどうだろう。みごとに部分と全体が融けあっている。実はこの箇所を読んでわたしが思いだしたのは、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』という作品で、主人公の夫人が灯台の光を目で追いかけるうちにそれと一体化してしまう有名な場面だった。
記憶はいずれ消えていく。その消えていくさままでを、長島さんは文字で撮っておこうとする。大好きな祖母の生前の姿は、まず言葉の細部や眼鏡の模様などが薄れだし、次に動いている姿がはっきりと再現できなくなり、やがて「布団の中で物語を聞いたときに眺めていた天井の豆電球」などしか浮かんでこなくなる。もっとあれもこれも心に刻んでおけばよかった、との思いから、カメラを手にしたそうだ。
最終編「a box named flower」では、庭で水を撒く青いホースが忘れがたい。使いこまれたホースは両端の口が裂けてきて少しずつ切る。切っているうちに、ある日、短くなったホースは忽然と姿を消し、新しい物に替わる。人の記憶もこんなふうにして失くなるのかもしれない。しかし文字で撮った写真は色あせることがない。