略奪愛の末、出来上がったカップルがふたつ。その当事者四人のその後の物語、と聞けばいやがおうでもドロドロとした話を予想してしまうが、この作品は違う。優しく、おだやかで、静かで温かい。それは舞台が城下町・小田原、という程よい「田舎」であるためかもしれないし、四人が介護という仕事を選んだ若者であるためかもしれない。
同じ介護老人福祉施設、いわゆる特養で働いていた正人と朝子は、同僚の歓送迎会の後、なんとなく「そういう」関係になってしまう。お互い施設内にそれぞれ梓と卓也という別の恋人がいて、割り切った関係だと認識していたのに、回を重ねるうちに「恋」になった。朝子が責任を感じ特養をやめてデイサービスの施設に移り、ふたりはお互いの相手と別れて、正式に恋人同士になる。その後、振られた梓と卓也も付き合いはじめる。朝子、正人は二十七歳、卓也は二十五歳、朝子はすでに介護士としてほぼ七年のキャリアがある。梓はそれより少し若い二十三歳。作品は、その四人各自の視点から語られる、六つの短編からなる。
略奪愛の末に、残った人たちも付き合いはじめる……そんなの「よくある話」、という言葉が作品中に何度か出てくるが、そうだろうか。私の周りでは聞いたことがないし、現実にあったら、「え、信じられない」と、はしたない大声をあげてしまいそうだ。
それまでの四人の関係は、ライバルでも気の合わない仲でもなく、お互い仕事振りも認め合い好意を持っている相手だった。だからこそ、つらい思いを抱えて、身動きができなくなってしまう。朝子は罪悪感で傷つき、梓がとても美人であることも手伝って、素直になれない。梓は「朝子さんに対する憎しみも怒りも特になし。と言って、正人に対する怒りも特になし」と言い切りながら、卓也には、ふたりに内緒にされてたことが許せないと語る。正人はハンサムで優しく、仕事ができて皆から好かれている青年だが、少し障害のある兄のことが心に引っかかっている。卓也は頼りないほど、のんびりおっとりしている……悪い人はひとりもいない。それなのに、朝子だけではなく、正人もケアマネージャーとなって棟を移り、梓も隣の市の病院の受付に転職してしまった。彼らは略奪愛そのこと自体よりも、まわりの好奇の目や噂、投げかけられる言葉に傷つき疲れてしまったのだ。
地方で介護を仕事にしている青年というとどういうイメージがあるだろうか。現場を知らない私たちは、マスコミの報道を鵜呑みにするほかないが、きつくて、つらく、慢性的に人手不足、なおかつ給料が安い……就いている人には申し訳ないが、暗い情報ばかりだ。実際、この小説の中でも、正人以外は親や祖父母と同居していて、決して楽な生活ではないと推察できる。しかし、この作品に出てくる彼らはお年寄りたちの境遇や国の政策を嘆くことはあっても、自分たちの給料が少ないと嘆くことは一度もなかった。政策を嘆くにしても、それは彼らの胸の内や恋人同士の間だけで、声高に主張されたりはしない。すでにキャリアがある彼らには、それが意味のないことだとわかっている。諦めているのではない。ただ、不十分な行政の中で、自分のベストをつくそうと毎日たんたんと働き続けていくのだ。
仕事が介護であるので、当然のように多くのお年寄りたちが作品には出てくるが、彼らは決してこの略奪愛のことを噂したりしないし、意見したり、積極的にかかわってきたりしない。もしも、おせっかいなお婆さんが偉そうに助言をしたりしたら、それはまったく違う物語になってしまっただろうが、背景としてひっそりと存在しているだけだ。だけど、やはり、四人はお年寄りたちに影響を受けたり、癒されたりしている。この距離感が絶妙で、ありきたりの介護のお話にしていないところがまた良かった。
ふと思ったのだが、四角関係略奪愛と介護の現場というのは、どこか少し似ている。どちらも噂や推測ばかりが先行して、だれもが本当の姿から目をそらそうとしている。なんだか、ドロドロしているようで、恐ろしい気がする。だけど、そこには当事者しかわからない、素晴らしいきらめきの瞬間や、喜びがたくさん存在するのだ。そんなに悪いもんじゃないよ、彼らに尋ねれば、そう答えるんじゃないだろうか。それなのに、周りの人間たちは、ただ、遠巻きにながめて、だれも実情を知るところまで踏み込んできてはくれない。そんな歯がゆさがある。
小田原という街はどうカテゴライズするか迷う場所だ。通勤圏内だが、東京の郊外というには少し遠い、田舎というには近すぎる、地方という言葉は漠然としすぎている。でも、住みやすそうで、おだやかそうで、優しい光がいつもあたっている感じ。そんな街が彼らの舞台としてぴったりなのだ。
物語の最後に朝子が梓の勤める病院を訪れる。そして、梓は気がつくのだ。「それぞれが正しいゴールだった」のだと。ここまで読んできた私たちは、素直にああよかったとほっとし、彼らの今後を応援したくなる。略奪愛の末、振られた残りものどうしがくっつくなんてありえなぁい、と思っていたのに、彼らの肩を抱いて、「そういうことってあるよね。しょうがなかったんだよ。若いんだから」と励ましたくなるのだ。
ここまで彼らの恋愛と介護のことばかり書いてきたけど、正人の視点から語られる、彼と障害を持った兄との関わりをえがいた、「貝の音」が秀逸だった。その兄の具合があまり良くないと母から聞いて、正人が実家に駆けつける。完璧な存在に見える正人が、実は幼いころ兄にした仕打ちを心の中で悔やみ、今でも複雑な思いから抜け出すことができないでいる。この一編は、作品が、ドロドロの略奪愛でもなく、ただ爽やかなだけの若者の恋愛小説でもないということをよく表している。