『「坊っちゃん」の時代』を機に、関川夏央は明治の文人たちとの親交を深めるようになった。もちろん、関川が論じた人たちはすべて物故者であるから、「親交を深める」というのは行き来をしたり、手紙のやりとりをしたりすることではない。その作品を読み、逸話を求め、書簡を繙き、彼らがいつ誰に会って、どんな話をし、どこに旅したか。どんな間取りの部屋に住み、どんな衣服を着し、何を食べたのかを知ろうとしたのである。そして、「根気よく調べればたいていのことはわかる」という先人の教えのとおり、調べがつく限りのことを調べ出した。こういう作業を何と呼べばよいのだろう。文学史の術語を使って言えば、あるいは「ポルトレ(肖像)」(portrait)というものに近いのかも知れない。
「ポルトレ」というのは「マクシム(箴言)」(maxime)と共に古典主義期のフランスに登場してやがて消えた文学ジャンルである。その二つのジャンルを文学史家ギュスターヴ・ランソンはこう定義している。
「マクシムとポルトレは正確な事実に対するこの世紀のあらわな嗜好を示すものだった。これらはいずれも現実を精密に記述するためのジャンルであり、ロマネスクな、演劇的な、詩的なつくりごとはそこからは徹底的に排除された。ここにおいて文学芸術は限りなく科学的表現に接近したのである」
この定義は『「坊っちゃん」の時代』以後の関川夏央の仕事にほぼそのまま適用できるだろう。主観をまじえず、価値判断を抑制して、「精密に記述」することだけをめざして、子規晩年八年間の「ポルトレ」を四百頁、関川は書いた。そこには子規をめぐる人々について、調べがつく限りのことを記している。例えばこんなふうに。
「夏目漱石が愛媛県尋常中学校に初出勤した明治二十八年四月十日は、子規が瀬戸内海対岸の宇品を海城丸で出航、遼東半島へと向かったその日であった。嘱託教員の辞令なので、学校中でもっとも高い月給八十円にもかかわらず、学級担任や宿直の義務はない。
四月十一日、漱石は帝国大学の事務方に、在学中の貸与金(奨学金)の返済猶予を依頼する手紙を書いた。漱石は大学生であったとき月額十五円を受けており、それを月に七円五十銭ずつ返すのだが、その金がないという。松山へ赴任するにあたっても旅費と支度金の算段がつかず、友人に五十円借りている。高給とりなのに不審である。あるいは、この頃すでに、かつての養家塩原家からの金銭上の要求があったものか。
その日の夕方、旅館城戸屋から、松山地方裁判所裏手、城山中腹にある骨董商の持家に移り、ここを松山における最初の下宿と決めた。中学校の歴史教師の紹介であった」(三十二│三十三頁)
紙数が許せば、関川は漱石が五十円を借りた相手を特定し、その借金申し込みの手紙を録し、塩原家との漱石の確執の由来について説明し、家主や紹介者の氏名経歴から、間取りや家賃までをも記したであろう。だから、先に私は「調べがつく限りのことを記している」と書いたのは実は不正確な文言で、関川はこれでもずいぶん自制しているのだと思う。
それでも、今の引用には関川の「ポルトレ」の手法の特徴がすでにはっきりと現れている。
第一は「数字」に対するこだわりである。
『坊っちゃん』の最後で、主人公は松山の中学を辞めて、「街鉄の技手」になって、清と暮らすのだが、関川によればそれは「中学校での月給は四十円だったが、街鉄では二十五円に下がった。その金で月六円の安い家を借り、(……)清とともに住んだ」(三十八頁)ということになる。中学校の数学の教師を辞めて、街鉄の技手になるという「坊っちゃん」の選択の意味は月給を比較してみないとわからない。関川はそう考えている。「坊っちゃん」は端的に言えば、「月給が四十パーセント減る」選択をしたのである。テクストの意味はリアルに把持されなければならない。これは関川夏央の批評家としての変わることのない構えである。
もう一つの手法上の特徴は、『「坊っちゃん」の時代』の印象的なラストシーンですでに絵画的に試みられたように、「同じとき、他の人たちはどこにいて、何をしていたのか」を一望俯瞰的に記そうとすることである。
漱石が愛媛の中学へ暗い顔で初出勤したその日、つまり『坊っちゃん』という作品にとっての文学史的な記念日に、対岸から、子規はやがて彼の命を奪う病の原因を作ることになる以外にほとんど意味を持たなかった日清戦争従軍の旅へ意気揚々と出航する。カメラを瀬戸内海上空数十キロの視点まで引き上げることによって、関川は漱石と子規の文学的運命を一望してみせる。
私たちの時代の文学理論は書き手が「神の視点」に立つことを許さない。関川もそのルールは熟知している。だから、「記録者に徹する」という控えめな名乗りを手放さない。けれども、「同時に起きたことを並列的に記述する」という合法的なふるまいを通じて、一気に上空に駆け上がることは可能なのだ。私はこれは「関川夏央の文学的野心」と呼んでいいと思う。
関川があらゆるトピックについて「そのとき他の場所では何が起きていたのか」を丹念に、というよりは執拗に記すのは、調べることそのものへの嗜癖ゆえではない。それによって高度を稼いでいるのである。
だから、本書には、同時代に子規と接近遭遇しただけの人々についても等しく深い描き込みがなされている(例えば、樋口一葉や山本露葉についての短く、印象的なポルトレ)。それによって子規という人が私たちにとって何ものであったのかが立体的に浮かび上がるように工夫が凝らされているのである。
本書のそのような仕掛けと野心に気づく読者はそれほど多くはないだろう。けれども、それが(古典主義期のポルトレ作家の場合と同じく)同時代の「ロマネスクなつくりごと」に対する深く激しい嫌悪に駆動されていることは感知できるはずである。