「海のものが上ってくる。どこへ向かうのか、入り江に続く森のなかを、ひそと通り過ぎる気配があった」という、神秘的な書き出しで始まる。東京から、三重県の志摩半島に、一人で移り住んだ女性の体感を通して語られる人も自然の風景も食べ物も、一年を通してみな不思議な気配をまとっている。
冒頭の「海のもの」とは、亀や蟹のことで、人家の庭に卵を産みにやってくるという近所の人の話からきている。卵から生まれたばかりの亀の子は群れをなして海をめざし、産卵期を迎えたメス蟹は、海に卵を流すために一斉に海をめざして行進するのだという。「まだ海と陸を行き来するものの行進を見たことがない」という「私」は、「海のもの」の気配を、「牡蠣がぞろぞろと浜からこの家の下の道を通り、別の浜へと移動しているのかもしれない」と推測する。岩にへばりついて動かない牡蠣にそんなことはありえないと思いつつも想像する「幻想の牡蠣」が地面を這うさまは、ユーモラスで官能的でさえある。
こんなふうに、半島に起こるさまざまな現象や噂話が、物書きでもある「私」の体感や想像力を通して独自の膨らみを得、やわらかな比喩を含む絶妙な筆致によって豊かな広がりをみせる。すべて現実に根ざした内容の小説なのだが、森の奥に神秘的な物語が待っているファンタジーの構造を彷彿させる、期待感がある。
主人公をはじめ、人生の後半にさしかかり、社会の第一線からはリタイアして後の生活を楽しんでいるような世代の家が点在している半島。様々な動植物とともに四季それぞれに見せる顔が新鮮である。それらを恩恵のように感受しながら過ごす人々の平穏な日々の背後には、それぞれの人生の物語がある。引退したように見えて、生き物としての濃密さを毎日ともなう。
川端康成文学賞を受賞した著者の『海松(みる)』も又、志摩半島での日々を描いたものである。ここでは東京の生活を基盤にしての一時滞在だった。『半島へ』では、一時滞在しかしていなかったその家に、いよいよ本格的に移り住む決心をする。『海松(みる)』の続編としても読める。いずれも私小説的要素を感じさせ、明日、何が起こるか、主人公も書き手もわからない。どんなふうに自分が変わっていくのかも、自分自身で常に自問自答し、確認していかなければ先が見えない。
それにしても、たけのこ、はちみつ、野いちご、きゅうり、枇杷の実……等々、半島で穫れる食べ物の、おいしそうなこと!人生の半ばを過ぎて生きていくことを、海を抱く半島の森の中で自覚する日々は、苦渋に充ちたものではなく、新鮮で滋養あふれる食べ物とともにある、しずかなユートピアのようである。
「よく五感を研ぎ澄ますって言いますよね。このごろ思うんです。人間は五感どころか、二十四の感覚を身につけているんやないかってね」と自然染め作家の橘さんという人が言う。「触覚、聴覚、視覚、嗅覚、味覚」だけでは大ざっぱで、花のにおいの変化がわかるなど、もっと微妙な感覚を感じ取れるのでないかと言うのである。「私」も「ここにいると、なにかが刻々と体のなかを動き回っているのがわかる」と共感する。「体のなかを動き回」るものは、その場で刺激を受けて感じるものと、それによって引き出される過去の記憶の両方で構成されているように思う。「私」は、野生の気配を敏感に感じつつ、過去の時間を詳細に回想している。
「ユキオさんの橋」と呼ばれる、亡くなった父親の本箱で作った小さな橋がある。そこを渡るたびに父、そしてその父を愛していた母、さらには妹や弟とともにあった、今に至るまでの家族の記憶を引き出し、その記憶とともに半島の森の深い場所へと誘われていく。現実の時間は、一方向へしか進んでいかないが、心の時間は行きつ戻りつする。半島の奥へと踏みこむことが、自分が生まれた場所へ帰っていくように誘導される流れは、自分の遠い記憶も刺激されるようで心地よい。
九月半ばに、海岸へ出ていく場面がある。小さな浜辺には誰もおらず、「私」は一人きりで遊ぶ。波の音しかしない場所で、「この世に生まれる前、きっとみんなこんな場所にいたんだ」と生まれる前の世界を思う場面が印象的である。「大きな海の前では途方もなく無力であること」を実感しつつ、そこに浮かぶことの「自由」を同時に実感する。それらは生死の境目を越えた新しい感覚だと思う。大きな自然災害を体験した日本人にとって、今とても必要とされる感覚なのかもしれない。
今は高齢者の多い鄙びた集落しかない半島だが、かつては好景気を背景に、リゾート地としてにぎわい、華やかなイベントが開催されたこともあった。森の奥にその名残りとして一人の人間の死が潜んでいたことと、そうした歴史とは全く無関係にやってくる新しい命とが響きあう。
海にぽっかりと浮かぶ孤島ではなく、本州と地続きの半島は、そこにたどりつく人々を拒絶しない。「水色の大きな子宮のよう」な湾は、大らかだ。受け入れることをよろこび、未知の者は足を踏み入れることをよろこびとする。同時に、またもとの場所に戻ることを引き止めることはしない。そこに住む人々は、地に足のついた生活者特有の力強さとあたたかみを備えつつ、他人を縛ったりはしないのである。自身もなにかから逃れてきた人たちだからだろう。
若いときに故郷を出て、東京で働き、東京になじみ、東京で生涯暮らすはずがいつの間にか半島の生活を自分がいるべき場所だと自覚する。半島にひととき集まる家族の時間は、二度と戻らない時間であることを予感しつつ過ぎていく。母親の老いを目の前にして、未来へつきすすむだけの時間を過ぎてしまった老いにむかう「私」。生き続けること、生きることそのものの意味をゆっくりと噛みしめる小説である。