弱い神

小川国夫

4180円(税込)

壮大なる「黙示」文学の誕生

富岡幸一郎

小川国夫は二〇〇八年四月八日に昇天した。爾来二年、このライフワークが刊行されるのを待ち続けてきたが、一九九九年の『群像』八月号に発表された「流れ者」からはじまり、最後の短篇となった「未完の少年像」(『群像』二〇〇七年一月号)まで、文芸誌にモザイクのように断続的に発表された作品が、ひとつの巨大な壁画として完成したのである。各篇をそのつど読んできた者も、はたして全体がどのような構想のもとに、いかなる流れを形成しているのかを推し測るのはむずかしかった。それが今、『弱い神』との表題を持つ大長篇となって現出した。出版に向けて作家は著者校正をおこないつつ逝去したので、修正すべき部分はあるいは残されたままになったようだが、通読してあきらかなのは、この大作はまさしく小川文学の集大成であり、その最高峰に他ならないということである。

作家の祖父をモデルにした紅林鑑平が、五十海(いかるみ)という土地におすみという女を嫁として求めて流れて来る。この壮健な男を、村人ははじめ薄気味の悪い渡世人のように感じて反発するが、鋳造所を建てて仕事に精を出すその気丈な姿に、村の若い衆は魅かれ、次々に鑑平のもとへ集って来る。時代は明治三十四年に設定されており、作家がくりかえし描いてきた駿河湾の大井川河口と故郷の藤枝や焼津の町が連想されるが、むろん作品は小川家のルーツを物語ったものではなく、鑑平も作家の筆によって創造された人物であり、五十海というこれも架空の土地にあって多様な人々が、男が女が交錯する。

驚くべきは、この大作の全篇が“語り”と“会話”によって構成され、その滔々たる言葉の流れのなかに、登場人物の個性や内面、その心理と感覚、面貌と一挙一動までが描き尽されていることだ。鑑平という剛毅にして優しい、またどこか悪と暴力をも秘めた男に惚れた男や女たちの姿態も、その仲間の一人であり十六歳で紅林鋳造所の働き手となった、物語の語り手のひとりたる鷺坂濱藏も、この“語り”のうちに生き、そして老い死んでゆく。荒々しい海風も、林のざわめきも、葦の根の匂いも、鋳造所の炎も、星月夜も、全てこの“語り”の流れのなかに揺曳し、生者の気息も、死者の幻も、その幾つもの支流へと展開するこの言葉の川に浮かびまた沈む。それは皆、生身の人間たちの懸命な声である。時の流れのなかから、その声を作家は実際に自分の耳で聞き取り、それを言語化しているのだ。

生前に刊行されたエッセイ集のなかで、小川国夫はこう記していた。
《……小説の作者が風景描写をしたり、人物描写をしたりする必要はないのです。全身これ耳となって、ただただ登場人物の声を聞けばいいのです。そのうちに、作者は登場人物と抱き合って、彼が感じるままに我も感じるようになるでしょう》(『夕波帖』)《ただ一つ、はっきりしている望みがあります。耳を澄まして、死者たちの言葉を聞きとることです》(同前)『アポロンの島』以来、小川国夫はこの世界の光と闇を凝視することで、独自な描写のリアリズムを造型してきた。それは印象派の画家たちのように光線のスペクトルを分解して、それを言葉の色彩によって再構成する強烈な視力の所産であった。しかし、その視力による情景描写は鮮烈ではあるが晦渋さを孕んでいた。少しだけ例を引こう。短篇「あじさしの洲」に描かれる大井川河口の風景である。
《最初、海の波は気まぐれに交錯した白い縞だったが、やがて厚みが判り、勢いづいて水同士噛み合い、洲に登ろうとしているのが感じられた》

しかし、『弱い神』では平易な“語り”のなかに風景そのものが内包され、人物の心理が自らその風景と合致する。鑑平の息子が生まれた日に、彼が海に落ちた子供を崖の上から発見し救助した話の一節である。
《恒策と鉦策は明治三十八年の十一月三日生まれですから、鑑平は目のさめるように明るく派手な櫨紅葉(はぜもみじ)をくぐって、そこ(注・崖の上)へ行ったのです。その果てには、人一人がスッポリ入るほどの、卵の殻を二つに割った形にえぐれた岩があるのです。坐ると、視界は海だけになります。駿河湾の形が見えます。伊豆と御前崎が両がわからせり出しているので、外海はずっと遠く感じられるのです。秋には多い澄んだ日には、その辺にも風の跡がキラめいているのが見えます。お義母(かあ)さんのお産をひかえて、お義父(とう)さんがなぜここへ来たのか、わたしには解りませんでした》(「人も羨む」)

小川文学の系譜を辿れば、『マグレブ、誘惑として』(一九九五年刊)は、作家がこの聴覚への決定的な転換をはかった作品であった。それは永年『聖書』に親しみ、聖書的世界を自作の言葉へと汲みあげてきた作家のアブラハム的な未知なる冒険への第一歩、すなわち近代小説の視覚的「描写」を捨て去ることで、ダイレクトに砂漠の上に天より降って来る「言葉」を聞くことであった。いや、作家はその出発点から近代小説とは全く異質な、独自性を孕んでいたが、『マグレブ、誘惑として』そして『ハシッシ・ギャング』(一九九八年刊)は(評論『聖書と終末論』を加えてもいい)、ライフワーク『弱い神』への大きな助走となった。作家は自ら、『聖書』の世界、故郷を舞台にした仮構のドラマ、そして実体験に基づく私小説風の三つの流れを意識して小説を書いてきたと語ったことがあったが、『弱い神』はこの三つの小川文学の流れを文字通り総合した作品であり、作家が渾身の力を傾けて創りあげた日本語による壮大なポリフォニック(多声的)な黙示文学といえるのではないか。この類例のない作品世界に比較しうるのは僅かに森敦の『われ逝くもののごとく』であろう。