この本に登場する主役級の一人、哲学者の西田幾多郎については、これまで英語やドイツ語など、外国語への著作の翻訳が少なからず刊行されている。ただ、そのうち西田の生前に上梓されたのは、「大東亜戦争」のさなかに出た、論文三篇のドイツ語訳が唯一だろう。ドイツ語教師として日本で活躍していた、ロベルト・シンチンゲルが西田の高弟二人とともにとりくんだ仕事である。西田本人が訳稿に手を入れたわけではないにせよ、それに近い性格をもった訳業とみなしていいのではないか。
このドイツ語訳を、戦後にシンチンゲルが英語に訳し直したものが、かつて丸善から刊行されていた(Intelligibility and the Philosophy of Nothingness, 1958)。ドイツ語版が入手できなかったので、この英訳書に目を通したことがあるのだが、そのときは実に驚いた。
何しろ、難解をもって知られる西田の哲学論文が、英語になると実に明快に読めるのである。たとえば、「絶対矛盾的自己同一」。西田の常用語であるが、「絶対矛盾」と「自己同一」とを別々のものとして理解するのでなく、ひとつながりの概念として把握しなくてはいけない、などと言われる、いわくつきの難物である。禅語なみの扱いがぴったりくるような。
この言葉がシンチンゲル訳では“unity of opposites”。もちろん、その意味内容を十分にくみとるには、論文の全体を読む必要があるので、これを眺めただけで原著者と訳者がもりこんだ含意にたどりつけるわけではない。しかし、この英語訳で読むと、漢字を多用して意味をつめこんだ西田の日本語文体とは異なって、議論の構造がすっきりと見えてくる。また、欧米の哲学からの流れをうけて、西田が思考した跡についても、より明確にたどれるように思えるのである。
西田幾多郎のほか、鈴木大拙、南方熊楠、折口信夫といった人物を、このたびの新著で安藤礼二はとりあげている。いずれもさまざまな方面に影響を及ぼし、論じられることも多いが、それぞれに孤立した印象を受ける思想家たちである。発想の独自性のせいだけではなく、安藤が指摘するように、「学の体系が、それを表現する主体の、きわめて主観的な体験に基づいた『実感』に色濃く染め上げられている」(195頁)という、各人に通じた思想の体質のようなものが、自己完結の孤独さをかもしだしているのだろう。
しかしこの本では、「コレスポンダンスとアナロジーの理論―生きた象徴(シンボル)によって不可視の世界と可視の世界をつなぎ、世界に統一と調和をもたらすこと」(183頁)という同一の思考を、彼らが共有していたことを明らかにし、その間にある活発な照応関係を描きだす。しかもその思想どうしを結ぶ線は、太平洋をこえ、ウィリアム・ジェイムズとチャールズ・サンダース・パースの哲学に、そしてその源流となったエマヌエル・スウェーデンボルグとシャルル・フーリエの思想を介して、シャルル・ボードレールやホルヘ・ルイス・ボルヘスの文学にまでも連なっているのである。
副題で「近代日本」の思想史とうたいながら、その内容の半分ほどを海外の思想の分析が占めていることに、驚く読者もいるかもしれない。しかし、西田や折口といった人々の発想を掘り下げていけば、その底に「近代日本」の哲学や民俗学や文藝が共有していた、一つの思考様式が見いだせる。その持ち主をつなぐ線は、さらに遠く欧米へ伸び、地球の裏側にまでも及ぶ。これを指摘したうえで、安藤は世界大の思想地図のなかに「近代日本」もあったと説く。
こうした見取り図の明晰さと、日本列島の内にとどまらない、大陸をこえた思想の交通を実感させるところが、この本から西田幾多郎の英語訳を想像させたのである。つぎつぎに話題が変わる、めまぐるしい構成にとまどいながら、本の頁をめくっているうちに、「近代日本思想史」をめぐるできあいの先入見が、突き崩されてゆくのを読者は体験するだろう。ちょうど、「可視の世界」から背後の「不可視の世界」へと人を導く、「コレスポンダンスとアナロジー」の方法の好例に、この本もなっているのである。
そして最後に読者がたどりつくことになるのは、折口が説いた、人間の記憶の奥底に沈んでいる原郷にふれる土地としての岬、「光に満ちた海のなかに自らの意識と身体がともに融解してしまうような特別な場所」(213頁)である。だが、この華やかな大団円で話を終わらせない構成が心にくい。そうした調和感からはじきだされたような、十九世紀フランスの両性具有者、エルキュリーヌ・バルバンの人生と、それに関心をもった南方熊楠とミシェル・フーコーの二人の姿を示して、本論を閉じている。ちょうど異質なものを休みなく産みだし続ける、熊楠が重んじた「森」のように。
もちろん、西田幾多郎の著作の英語訳が、原文の文体にある、うねるような質感をそぎ落としてしまうのと同じように、強引に思われる解釈も見られる。たとえば、西田が国家に関して抱いた理想について、「独裁的な国家」(189頁)と断定するのはさすがに難しいだろう。折口が晩年に「一神教をもとに神道を読み替えようとし」(200頁)た営みは、日本民族の心性に積み重なる「記憶」の重視と、どう両立しているのか。しかしこうした個別の詮索をこえて、多くの思想を包みこむ広大な空間を、まるごと指し示す。この本の意義はそこにあるのだろう。その冒険性をむしろ買いたい。